“ハードボイルド”、最後の可能性。

 ツインさんのご招待で「コンフェッション 友の告白」試写へ。表向きイケメンを揃えても、ジャケ通りに甘くないのが韓国映画のいいところ。端的に本作は、「友へ チング」に対する最新型のアップデートの側面を持つ作品と言える。だが、舞台が釜山というのがもろに「友へ〜」ながら、成人後も固い友情で結ばれたと思っている幼馴染みが、ある事件を境に互いの欺瞞に気づかされていく容赦なさに、単なるオマージュでないアンサーを受け止めたい。それは露骨で執拗な“刺し方”などの暴力が強調された「友へ〜」と裏腹に、深い痛みを伴う暴力が(韓国映画にしては)さりげなく描かれた点でも顕著であり、三人の力関係に「カリートの道」や「ミスティック・リバー」など、海外の重い友情物語の研究を経て導かれたセオリーも込めたことで、単品としてだけでなく、今や韓国暴力映画のマスターピースになりつつある旧作と比較する楽しみも残してくれている。また、日本に近い釜山ゆえ、「スラムダンク」など、主人公たちの染まった日本文化への造詣ものっけから込められ、その思い入れが本物である証拠に、父を意識してか、やや松田翔太を思わせる風貌の主要キャラに対して、演出で大幅に体重を増やさせてまで空港における立回りを演じさせるところへ、かつて“ジュピター”に行こうとした下関の偉人の影響まで見え隠れし、日本人としてはいささか照れくさくなってしまう。なお、濃厚な男のドラマにも拘わらず女優陣も添え物でなく機能して、主人公の聾唖の妻を演じるチョン・ジユンの屈託なさは物語に救いをもたらし、鍵となるキャラを「私の少女」においてペ・ドゥナの恋人を演じたチャン・ヒジンが演じているところも「またこの女?」と笑わされた。チョン・ジヒョン似のせいか余計に整形に見える上、美人というより個性的な風貌が生み出す妙な存在感から、バイプレイヤーとしての今後に期待してしまわざるを得ない。なかなか日本ではありつけないが、鑑賞後は主人公たちのように焼酎の小瓶をショットグラス紛いの紙コップで呻りたくなる逸品。


 一観客として「ラン・オールナイト」へ。数本でやめると思ったのに想像以上のスタミナを見せ、妻の死を忘れようとアクションに出続けるリーアム・ニーソンの生きざまが、最近のニーソン作品は特に隠し味で加わり、その行者のような徹し方も「ロッキー」において観客が己やスタローンと勝手にダブらせ自然に感動を深めるのと同等の効果を産み出しつつある。監督とは三度目のタッグだが、今回は「フェイク」のパチーノ的な、組のお荷物と化したマフィアの殺し要員が、自分の息子を守ろうとボスの息子を行き掛かり上殺し、ニューヨーク中を組とその息が掛かった警察から追われる、親父版「ウォリアーズ」だ。また、ニーソン版「バッド・サンタ」と呼んでいい現在進行形の酒まみれで、酒浸りから足を洗う「誘拐の掟」とも差別化できている。異邦人としての監督視点から表層的なニューヨークを開き直ったか、フォーカスが浅くよく動く撮影で、殺し屋コモンの装備が(小型赤外線スコープ?)致命的に分かりにくい。だが、その閉塞感がサスペンスには活き、かつ登場するテクノロジーの現代性と共に、家族への贖罪というテーマとは食い合わせが悪く、違和感の類似に「狼たちの処刑台」を思い出した。とはいえ、思わせ振りなアルバニア系組織は「96時間」シリーズへのギャグとして、ニーソンに限らず「ステート・オブ・グレース」を彷彿させるエド・ハリス組長に加え、叔父で登場するニック・ノルティによって、アイリッシュの無骨な男の系譜に筋が通り、息子の妻など、案外エスニシティへの配慮が深かったのである。なお、「一晩逃げ切る」状況設定は根拠として希薄ながら、警察が牛耳られ個人を守る法もない状況下、究極の手段である暴力が、誰もが手を伸ばせる位置の安全装置として行使される明解さと、応酬になれば最後まで行かないと終わらない点は「イコライザー」にも通じる暴力への考察としての真理であろう。俺も親族に贖罪するなら生命を懸けないと果たせないかも知れないとは考えさせられた。


 一観客として「私の少女」へ。独り酒の苦味が分かる全ての大人へ捧げられた、至高のハードボイルドである。ペ・ドゥナのお蔭でソフトになっているが、ペットボトルに酒を入れ換えたりなどアル中ならではの世間体を気にした姑息さが身につまされる感覚として非常にリアル。「リービング・ラスベガス」に限らず、風呂で飲むのは重症だよ。確かに孤独を紛らせるのに、酒は初めのうちは効く。俺にはこの感覚、もう慣れすぎて涙も出なくなってしまったが、却って淡々と描写されているため、監督の誠意とこだわりを感じ、哀惜を伴ってフラッシュバックさせられた。こうしたセンスに感応したイ・チャンドン監督のプロデュース作品であるという点にも非常に説得力があるし、その嗅覚に応えた本作もまた力強い。登場人物の力学としては、全く異なる物語ながら「音もなく少女は」の感触と近いものすらある。また、近い時期に見たからというだけでなく、中央の抱える問題が皺寄せされる場としての地方(漁村)という位置付けで、「海にかかる霧」同様、重層的な問題に異なるアプローチで迫ろうとする姿勢や、韓国映画特有の中央と辺境の格差、日本にも通じ、閉鎖性からさらに過酷な外国人搾取(差別)、そして儒教的体質故に、より厳しいであろう同性愛者への偏見など、現代の邦画なら問題を隠蔽して予め排除するタイプの社会派要素を取り込み、かつ娯楽としての完成度が申し分ない点も共通している。その証しとして、復讐を終えたアウトローを荒野に見送るかのような、結末における奇妙なカタルシスは、俺にとって本年ベストテンにランクインする予感をくれた。さらに、成長期の少女の骨の軋みが聞こえるような内面と見た目のアンバランスが醸し出す、いい意味でのフリークス性が切り取られた作品としても「ロリータ」的なるものの本質に迫っており、映像として稀有のものがある。