アクション映画への異常な愛情など。

 パラマウント ピクチャーズ ジャパンさんのご招待で「ターミネーター:新起動/ジェニシス」試写へ。あくまで「ターミネーター」にSFを求める層と、シュワを求める層の解離を統合した偉業。スター映画の見せ場にこだわり、シリーズのサイボーグやタイムスリップ定義を揺るがした「3」、シュワ不在から「1」の重箱の隅をつつき過ぎミニマルな終末後SFとなった「4」、そしてミッシングリンクを繋ぎそうな設定なのに、迷走の果てに死産した「TSCC」。これらを踏まえれば、多少リップサービスでもキャメロンは誉めるはず。だが二作目まで見れば分かるシンプルで力強い物語でも、キャメロン版以外を無にするのでなく、「3(液体金属の新解釈やウイルスとしてのスカイネット)」と、「4(ヘレナ・ボナム・カーターにより擬人化された存在としてのプログラムや若いシュワの再現精度追求)」も踏襲してるのが感涙である。さらには損傷した生体部分修復に(培養の?)時間が必要だとか、発端としてではなく物語展開のためにタイムスリップが用いられたり、さらにはまだ絡むダイソンの遺族など、水子供養のようにTSCCに込められた要素まで拾っている。よって己が関与しない「4」や「TSCC」を嫌うシュワの立場と異なり、シリーズへの愛が深く安心できるのだ。防いでもまた別のテクノロジーの形で結局技術革新は起き、個人に止めようがない絶望感は、「ロボコップ」リメイクとしての「チャッピー」に通じる、今日的に見えて実は普遍的テーマも取り込み、能天気なスペースオペラより、「マッドマックス」同様、結局俺はディストピアしか魅力を感じないと生理で分かった。ブロムカンプ繋がりでついでに言えば、今回はスクリーンの外でのシュワと“T-800”という関係性が、愛着だけでなく“エイリアン”と“リプリー”のように運命的な開き直りから、今後も恐らく続くシリーズと心中する覚悟が見えるだけでなく、台詞も含めた二作目までのオマージュの嵐によりマニア度も問われる意味では、フォロワーにより作られた「ダイ・ハード4.0」の感触も持つ。さらに、脱がなきゃできない“時間旅行”という性的メタファーを絡めつつも、ラブストーリーだった原点にも立ち返った(肌と肌が接触するこの重要さ!)。要するに俺にはないままに消えていく感覚の虚しさに思いを馳せたのである。肝心の“T-3000”に関しても、合わせ技でしかない“T-X”を忘れさせてくれる“T-1000”の正統な発展型であり、「2」公開時に「今回液体なら、続編の敵は気体だな!」とドヤ顔で言った先輩の見立てがある程度当たってたのに驚いた。さらには、作品内の時系列ジャンプを補う存在としての“オブライエン刑事”は良い“シルバーマン先生”であり、風貌的にランス・ヘンリクセン刑事のDNAも継承している。無理するよりやはりこういうシモンズの方が楽しそうだし、映画全体の幸福感をさらに上げ、敵の正体に納得できさえすれば安心して次作を待てるだろう。その上、俺には熟れきったサンドリーヌ・ホルトというお土産つきだった。


 一観客として「グローリー -明日への行進-」へ。製作に関わってるだけに「カラーパープル」を思わせる出だしのオプラによる悪名高いエピソードの再現からして美味し過ぎる!大統領映画としてトム・ウィルキンソンによるジョンソンは似てるが、超大事なフーヴァーは見た目よりゲスさ重視なので許しつつ、「パブリック・エネミーズ」や「J・エドガー」等のFBIダーティワーク史としての健闘を讃えたい。つまりソフトな「アンダーワールドUSA」三部作の一端を垣間見せてもくれるわけで、もっと史実寄りのためこうした双方の憎悪を煽る分離政策は権力者には好都合な統治形態として今の日本でも形を変え進められているだけに他人事ではない。あえて描かずともいい愛人の件などは仄めかされているのみに止まるが、遺族が製作に許諾しながら夫婦の不和も正面から描く点に誠実さを感じる。またマルコムXの登場は微妙ながら、一般に知られる史実を巧妙に避けて出番を用意し、相反する思想と現実のdisり合い、歩み寄り合いつつもすれ違う様をコンパクトかつ重要なエピソードとして位置付けており新鮮味がある。特にキング牧師が普通にプレッシャーに耐え、挑発に堪え、脅される不安や些細な嫉妬に葛藤する等身大の三十男として提示される本作の趣旨に有機的に絡んでいるのだから当然で、史実の再現を俯瞰で史実が再現されるダイナミズムは、視聴率や権力者の機嫌を取るために偽の史劇を作る日本では到底味わえない醍醐味。実際に劇中の権力批判と併せて踏み込まなければ非暴力不服従の内包する戦闘性がここまで激烈とは思わず、俺もキング牧師をマルコムばりに揶揄したままだったかも知れない。未だに白人警官による黒人容疑者の射殺などが相次ぎ、克服しなければならない各種の人種差別を抱える多民族国家だからこそ、団結と並んでその意義もまた問われたし、そのとりわけ深い暗黒面である南北戦争における黒人部隊を描いた「グローリー」と同じ邦題にしたのは意味がある。本作と対になるべき「マルコムX」と並び、併せて見たい。とりわけ現代日本では、有名な“最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。 沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。”というキング牧師の言葉を連想せずにはいられない。


 一観客として「マッドマックス 怒りのデス・ロード」へ。被曝による生物や人間の奇形化や症状が散見される時代で、「〜サンダードーム」より時間も汚染も進行し、異常な価値観も抵抗なく盲信される世界という点は前三部作と繋がりつつ微妙に異なるパラレルワールドにも見える。劇中使われる銃が三作目公開前後に発売されたことにも顕著で、生身のスタントへの徹底したこだわりやソードオフショットガン&オルゴール&二作目のマックスの負傷をする人物など、セルフパロディもあるが、先述の人体への影響やカタストロフ描写は現代まで技術進歩を待たずに映像化不可能で、既に十年以上前から難産は知られ、現在完成を見たのは必然とも感じられる。さらに名乗らない流れ者というマカロニ風骨格が二、三作目と共通なことから、合体リメイクとも言え、かつ両者を自己更新しようという作家的な意志も、見事に果たした。前三部作にあった子供要素を排除し、三作目の子供集団が悪用された例を“ウォーボーイズ”として提示することで、男女の位相を巡るドラマに絞り、結果として「イーストウィックの魔女たち」、「ロレンツォのオイル」、「ベイブ 都会へ行く」や「ハッピー フィート」といった、主導権を巡る闘争や不条理への抵抗という、継続した従来の作家性も提示されている。女への搾取がテーマだけに、 “死神署長”や“スカルキング”似のイモータンジョーのルックスもさることながら、女が女を逃がす「関東地獄街編」/「野獣王編」の“アイラ・ムー(アイラ武藤)”=フュリオサとも言え、背景流用のみで知名度を上げた「北斗の拳」より(“種モミじいさん”的なネタはあるものの)、むしろ「バイオレンスジャック」との相互の歩み寄りとシンクロが半端ではない。ジョーは軍人の出自を持つと装備で仄めかされるため、元ネタすら知らない層には引き合いに出しやすいのか、“ジード”的な比較ばかりで歯がゆかったが、むしろ「北斗〜」フォローを交え言及するなら、あの集団はむしろカーネル率いる”GOLAN“であろう。管理体制の確立は、(マスター・ブラスターをパクリもした)“コウケツ”や、その元ネタである「〜ジャック」の“クラーケン”と言っていい。女の蹂躙テーマは「女性が輝く社会」との嘘で、女を労働力と同時に子を産む道具の行き場なき鋳型へ嵌め込もうと企むカルトが裏で糸を引くこの国だけに、メッセージはより鮮明になると思う。気になるのは犬死に/自己犠牲的な死と、死でしか救われない男性性強制の問題だが、作り手が強者男性だから気付きにくいのと、その克服を描くとアクションが成立しないため、解放されるのは女だけだ。また、荒廃し清潔維持が難しい世界なら性別問わず短髪になるか、昔のように総じて長髪かしかない筈。それでもフュリオサ以外女が長髪に拘るのは、本能的な性戦略に基づいてるとでも言うのか?もちろんただの娯楽にそこまで説明しろってのは酷だけど、PTSD患者にはひたすら身につまされる配慮のつるべ打ちなだけに気になる。そして突発的無駄死にも描き、死を英雄的に見せないことで、イスラム過激派や靖国行きを願う特攻隊などへの危険性を暗示するなど、表層的な風刺に見える向きもあるだろうが、この言葉少なさが普遍的な強度を持つ。なお、走りっ放しにもかかわらず食や睡眠も描いているので、どうせなら排泄やセックスも描いて欲しかった気が、次回作に期待するか。その時には今回より銃器が尽きた時代である時間経過と作劇が欲しいね。