ブランクはあっても映画は見てるの。

 パラマウント ピクチャーズ ジャパンさんのご招待で「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」試写へ。前作「ゴースト・プロトコル」の直後から連続した話だと早々に明かされる。前作が一作目のリブートの趣があったように、導入の高所スタント、行き場のないヒロイン、正体が明確な敵、バイクチェイスなど、今回は二作目リメイクの趣も多少見受けられた。物語的な関連性に限らず、二作目がジョン・ウー作品であったことにも近い、本作の中国との緊密な資本関係が、逆に中国ネタを不自然にスルーした物語にも顕著で、そんな中、オペラのネタやチャン・チンチューの起用にトムの女優選択眼の確かさと中国への色目遣いが見える。もちろん「M-i:?」も中国との資本関係は濃密だが、ロケしたことで当局に睨まれたのもあってより学習しているということだ。しかしそこで「引退する」とか言って、次の「ゴースト〜」にも妻のミシェル・モナハン登場により辛うじて婚姻の維持された設定は判明したが、今回まだエージェント続ける気満々と分かったから、婚姻の先行きはともかく、次回中国ロケがまた期待できるかも。事実こっちの三作目の後、007は「スカイフォール」で中国ロケを導入したように、今回の幕引きは「スカイ〜」からの影響が見受けられ、シリーズ同士が相互に影響しあってるのもより顕著で、もちろん前作の悪役レア・セドゥが「スペクター」に出てるのもその大きな証左だ。また今回斬新と思ったのは、ミッションの脳内シミュレートを映像として語らせ、その大半が予告の中で物語へのミスリードを誘うハッタリとして思わせ振りに使われているのも興行上の戦略として上手い。


 一観客として「インサイド・ヘッド」へ。擬人化シリーズと俺が勝手に名付けるピクサー作品は、実のところやろうと思えばひどく陳腐でも擬人化なだけあって実写で人間に演じさせるのも可能だが、これだけは違う。スケール的に実写不可能なビジュアルがアニメには出来たりするのも醍醐味だろうが、本作は「パプリカ」などに触発されながらも、より先鋭的に観念を映像化させられるアニメの醍醐味を存分に発揮し、少女の脳内の葛藤と成長の腑分け作業自体を同時進行で娯楽としても見せてしまうという離れ業なのだ。それだけに設定とビジュアル設計の丹念さに気が遠くなり、これが子供の思考の範囲内だからこそ感動があり、対して無意識の想念の野放図さによる冒険が生まれる下地があったことに膝を打った。大人であればより現実的で所帯染み、かつ複雑なだけのものとして下世話にはなっても冒険要素が高まるかは怪しい。誰もが主人を好き(これは大人にも言える)宿主が死にたいほどのメランコリーにあっても、身体は生きようとしていて、外敵は自分を憎んでるかもしれなくても、自分の内なる全てはおもちゃ達が持ち主を最優先に考えてくれていたように自分を愛してくれている。はたまた自分が意識下に追いやった「レインマン」のような存在もいるかもしれない。そんな可能性やエールが自分の内部から自然に奇跡として分かる内容だけに、性役割押し付けの含みを持つ短編と、ドリカムの時間の無駄遣いは極めて不快で、作品そのものを毀損しようという邪悪な意図が窺えた。


 一観客として「野火」へ。これは生理に訴えるための戦場を舞台としたオープンワールドな「ヘイズ」だと言えるし、この地獄を生き抜いた青年(森優作)の後半生が、「バレット・バレエ」の井川比佐志として描かれることにもなるので、監督のフィルモグラフィとして本作が今作られた必然性が非常に高く、不快でもすんなり入る。そしてそれだけに「バレット〜」のように暴力(弾丸)を誘引する核に今回も中村達也がいる。ただし今回はカラーであり、極彩色の自然美が切り取られ、自然は今も昔も不変だからこそ、鮮明な映像から地獄の戦場へ滞りなく移行でき、日常から非日常への没入を容易に、かつ、より否応なしのリアリティで盛り上げてくれていた。自主製作でなければより豪快な人体破壊もあったかもしれない。でも予算的には「キャタピラー」など世界的評価の高い例もあるし、それを「プライベート・ライアン」の志で実現したのをまず手放しで称賛したい。舞台の似た南方戦線では「ザ・パシフィック」的な敵への憎悪むき出しの映像化もあるが、「シン・レッド・ライン」みたいに敵をろくに敵と認識しない余裕ある映像化もあるわけで、さらにはイーストウッドの「硫黄島二部作」の対比と並ぶと、こりゃ当然日本は負けるわ…という納得と、戦争自体の割に合わなさは、冒頭のビンタの繰り返しに見られるように、監督が愛してやまない“水木戦記”的な日本独自の不条理への目配せもあるのだと思いたい。ちなみに過去の市川崑版と併せて鑑賞すると、トンプスンの「死ぬほどいい女」の構成にも似た、体験者として「こうありたかった脳内の主観(市川版)」と、「逃れられなかった現実(塚本版)」の落差という具合に、極めて対照的な味わいが堪らず、塚本版と比較するほどに市川版も、果ては原作もそれぞれ深みが増すことになるだろう。