人ある限り物語も死なない(死ねない)。

 ファントム・フィルムさんのご招待で「さようなら」試写へ。戯曲ベースの劇映画というと、低予算でセットやロケ多用ができない現場事情を活かし、こちらの裏をかく観念性や役者のポテンシャルで内容を補填し、意外な角度から質をアピールするものも多いが、本作はそんな流れと完全に逆向きのSFでかつ、震災後のこの国の不安を設定やビジョンとして見事なスケールで具現化した、正攻法のカタストロフ娯楽作品であった。放射能汚染により「日本沈没」ばりに住民の国外避難によるスラム化が進行した近未来、残された数少ない人間たちの間を、そのものズバリの“狂言回し”として起用され見事に立ち回る、人間型アンドロイド「ジェミロイドF」こと、“レオナ(役名)”の適材適所としての配置も含め、異色のキャストはまさに現代だからこそ作り得た、現実の合わせ鏡としての批評的機能を遺憾なく発揮している。これは日本における「タイム・オブ・ザ・ウルフ」的な不安の表出だし、国産の「ボラード病」的な映像分野からの同調圧力不信の結晶である。優先的に難民として次々と国外脱出していく“模範的日本人”に対し、残された日本が内包する癖に“日本でない”と言外に認定され棄民となる在日外国人・前科者・諸々の被差別者同士の淡いコミュニケーションを、新井浩文も自らのアイデンティティにマッチした役どころとして、体感時間の中に終末を移ろう様は、アンドロイド同様に異物感のある、南ア出身という設定のヒロインより奇妙な説得力があり、役への向き合い方も「異邦人の河」におけるジョニー大倉を彷彿とさせる。しかし、やがてヒロインも自ら身体を張り異物でない証明をすることで、残されたアンドロイドは、まるで「A.I.」のごとくに異物であるがゆえの奇跡を体験できるというのが、あらゆる皮肉や哀しみの籠ったラストショットに集約され圧巻そのものだ。


 一観客として「GONIN サーガ」へ。あのエンドロールの後も人生は続いていた。創作を人生へ進化させ、血を通わせるための試み。そういう捨て身の表現、俺は嫌いじゃない。ただし、PG-12(G)がすべての元凶であり、顔ぶれ並みにヌルいのは百も承知で臨んだが、オリジナルへの思い入れが強ければ強いだけ、「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」以上に物語から反復ないしは作家性への深読みをせざるを得ない、歪でも(歪なだけに)オリジナルへの愛が問われる。それはオリジナルと同じ時間の別視点へと何度も行き来する遺児たちによる強引な筋運びであっても、馳星周がデビュー作へのけじめとして心底嫌な思いをしたと自ら吐露しながら「不夜城」に対して絶対にこれ以上続きが作れないようとどめを刺したのに似て見え、同じく性と暴力を扱うノワール者である石井隆だけに、それは偶然でもない筈だ。監督にも製作が辛かったであろうことは単にブランクだけでなく、「〜愛は惜しみなく奪う」よりは有効に繰り返される、ある意味セルフパロディにすら見える執拗なネタ反復にも窺え、その核に根津甚八がいればこそ辻褄が合い、彼が導く物語や役者人生への引導渡しを引き受けたからには、無理な肉付けを受け手も不問にして完結を受け入れることができた世界とも言える。前作のように半ば無理矢理に穴だらけの計画で襲撃に仕向けられたことからすぐ足がつき、組織のヒットマンに一人一人殺されるなら同じだが、レイティングゆえに「フリーズ・ミー」で凌辱の限りを尽くされた井上晴美を、オリジナルの“ナミィ”扱いに出来なかったことが復讐の原動力としては致命的で、それが果たせれば、井坂俊哉の悪役としての立ち位置も「アウトレイジ ビヨンド」以上に輝けただけに、この瑕疵はアンレイテッドで晴らして欲しい。まあ今回の襲撃も杜撰で動機も薄いので、前作で世に出たばかりの携帯が駆使されたように、ヒットマン側のトリッキーなスマホ多用の動きに端を発し、黒幕(彼の名乗りは「夜がまた来る」を思い出す)を一部が知るところとなり、新たな復讐の動機が振り向けられ、発端の場でもあった場が決戦の場へと収斂し、場に食われるように残りの者も散っていく。ヒットマンも「ハエ云々」や、相棒・福島リラ(彼女も“ナミィ”ではないどころか、殺し屋“ヨイチ”としても残念な扱いである)への執着など、思わせ振り描写が多い割には、前作におけるビートたけしのような恐ろしさは皆無で、本作が“石井隆作品における竹中直人サーガ”の側面もあるせいか、ジョニー・トー作品におけるラム・シューのごとく記号としてスルーするしかなかったが、ハエにまつわる目配せはオリジナル並びに「ラブホテル」への含みとしても嬉しく受け止めさせてもらった。代わりに、テリー伊藤の異形性には、当時の顔面麻痺を押して出たたけしへの対蹠物としての配置とも窺え、だがそれだけで弱い異形性を文字通りガチの異形と化した根津甚八がカバーし、たけしの穴埋めをしようと健闘している。話を戻すと、要は本作自体が「縄姉妹・奇妙な果実」や、「死霊の罠」のリメイクと極言してもよく、その意味では過剰なバイオレンスのないPG-12の看板に偽りはないし、まさに念の蓄積された場としてのお化け屋敷を描くのが主眼で、バイオレンスではないとも言える。因業/因果が語られるのは活劇ではなく怪談である。だからこそ、実は名美と同じ姓を現実に持つ“麻美”こと、“土屋”アンナは、死屍累々を前に「GONIN」シリーズはおろか、「黒の天使」シリーズでも多くの血が流れた“ディスコ・バーズ”自体が、“名美/村木”のようなパラレル装置だからこそ、室内にまで雨が降り、細かい整合性にも目を瞑れるマジックワードとして、かつて自分を迎えに来なかった村木(「赤い目眩」の竹中直人)に向けたのと同じ台詞で独りごちた。そして彼女の風貌がハーフのそれであることには、先述の“名美/村木”サーガと、「GONIN」や「黒の天使」をパラレルワールドに持つ“バーズ・サーガ”の混沌から産み落とされた、石井隆エッセンスの凝縮されたあいのこが彼女なのであって、この起用にも紛れもない必然がある。とはいえ、レイティングのせいで麻美が性奴隷と化した経緯は語られず、しかしセックススキャンダルや彫り物で失墜したアイドルといえば藤本綾であり、非業の死を迎えた実業家を父に持つあいのこと言えばエリカである。これらを容易に想起する背景を透過させるスキャンダラスなヒロインのキメラである結果としても、麻美は二重の意味で無国籍な風貌でならなければならなかった。彼女のそもそもの立ち位置は、本作における死者への目線と共に、男に寄生すればとりあえず生きていけるという女性像の一端が窺える意味で、「GONIN2」のヒロインたちが持っていた一面を踏襲しているようにも見え、実は最大のキーマンである。そしてオリジナルのオープニングで俯瞰される東京の夜景に対応するように流れるエンディングの夜景は、二十年を挟み、不自然なまでに白々しい明るさを放ち、偽の灯りを忌避するようにカメラは海に向かって行く。エンドロールを眺めながら、なぜかこのシリーズだけ想像以上にトレードマークのような斜体フォントの傾きも少なく、監督にとって特別なシリーズだというのがここからも分かると噛み締めていた。


 一観客として「ファンタスティック・フォー」へ。監督ジョッシュ・トランク自身が炎上させた割にはちゃんとヒーロー物のビギニングしてたし、全員が間抜けな能力の持ち主というどうにもならない出発点を開き直った前シリーズよりは多少シリアス方面への発展の余地を感じさせる作りにはなっていた。監督自身が公言していたクローネンバーグ的要素も残されてるし、自身で映画会社を貶すほどには編集権を奪われたデメリットは感じない。もちろん監督の前作「クロニクル」があるだけにあてがわれた素材をギリギリのラインで調理してると言えるし、作家が原作ものを任されたという意味では「エアベンダー」ほどどうしようもなくもないのでむしろまともに見える。年齢的には全員若返っているというのは一つのメリットかもしれないが、ヒロインはジェシカ・アルバの方が華があった(但しブロンドの彼女は嫌いだ)し、ジェイミー・ベルに至っては出番が少ない上に予告にあった変身前の野球シーンがないので、明らかにディレクターズ・カットと違うものが公開されているのは分かり、かといってヒーロー誕生前のエピソードなどヒーロー自身の活躍とは関係ないので切られてないバージョンを見たいとも思えないのであった。それにしてもドクター・ドゥームが誕生してしまった経緯はかわいそう過ぎるし、あれなら全人類を憎んで滅ぼされても仕方がないのに、わざわざ呼び戻してしまって話がややこしくなるという厄介な展開であり、かつ本来MCUとは関係なく、「X-MEN」など他の独立シリーズとの絡みも、スタン・リーの特別出演もないとあっては、作品への愛情や思い入れが感じられず、マーベル実写化作品においてもリブートという仕打ち自体が鬼子なのだと思わざるを得ず、敵同様に憐れだ。とはいえ各キャラの装いにはそれなりに能書きもあったし、「恋人まで1%」の二人だと思って見ていたマイルズ・テラーマイケル・B・ジョーダンの噛み合わせは非常に自然だったので、不幸な駄作と一蹴することもできないのである。