久々でも冬眠とかしていたわけではなくて。

 日活さんのご招待で「キャノンフィルムズ爆走風雲録」試写へ。小学生の自分が、かつて「ブレイクダンス」シリーズによってブラック・カルチャーに興味を持つきっかけをくれたのを思い出した。また、アメリカ映画という思い込みから、頻出するヘブライ文字に奇怪なイメージを植え付けられた「グローイング・アップ」シリーズや、一連のニンジャ映画ブームの中では一番まともだったショー・コスギを見出し、「シュワルツェネッガーと人気を二分する」との触れ込みに騙され、チャック・ノリスからブルース・リーに遡っていったジャッキー世代の俺には、邦画で何気に世話になりっぱなしであった角川春樹と並び、その欧米的でない響きからメナヘム(メナハム)・ゴーランの名はプロデューサーとして案外早期に俺の頭へ刷り込まれ、影を落とした。イーライ・ロスも同様だったらしく、その暴力性と反共エンタテインメント性を力説してくれるので励みになる。またチャールズ・ブロンソン(「スーパー・マグナム」)、ジャン=クロード・ヴァン・ダム(「サイボーグ」)、「コブラ」、「オーバー・ザ・トップ」「バーフライ(フランク・スタローン出演!)」の流れで、俺も劇場で激怒した「スーパーマン4/最強の敵」に触れ劇中で激怒させ、キャノンの凋落と崩壊とともに、いつの間にか道を分かっていた筈の、従兄弟でもあることからいつも連名で記憶させられていたもう一人の名プロデューサー、ヨーラム・グローバスとの再会にも持ち込む意図も持つドキュメンタリーでもある。彼らが和解によって映画少年へ回帰して行くという温かみのある終わり方に、死別で不可能になった藤子不二雄のコンビ解消と果たせなかった和解による漫画少年への回帰を重ねてしまった。


 一観客として「ヴィジット」へ。もうウィル・スミスが出る映画はいかなる形でも見ないが、シャマラン映画なら何らかの突っ込みどころを期待してまだ付き合う。全然好きな監督ではないが、悪い意味でそれだけ個性ある監督だし、いい加減世間に見放されたのもよく分かる。要するに低予算まで追い詰められ、結果としてあの客を舐めたような作劇についても、そこそこのいい結果が出ているということだ。位置付けとしては「ヴィレッジ」と「サイン」の中間くらい。要するに世間的にはどうでもいいがシャマラン的にはまあまあで、超常現象のせいにしないのと、どんでん返しありきではないラインがギリギリに保たれ、童話をモチーフにしたと思しき姉弟の視点で双方向自撮り映画として進行していく。POVとはまた一線を画す双方向自撮りという手法は、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」、「クロニクル」と発展を遂げてもいるし、当然シャマランも流れに学んでいるから、POVがスタイルとして「食人族」以来宿命として抱えている落ちを回避できる利点も活用。ストーリーとしては個人的にジム・トンプスンキューブリックによる幻のコラボ企画をも意識しているのではないか?という節が窺えるも、子供相手の映画でもあるから、キチガイでも暴力性よりウンゲロの下ネタというのは新機軸。弱者による家電の暴力的な使用法として、「GONINサーガ」との共通点が見られるのも興味深い。無名キャストに不安を掻き立てられる中、skype通話で新しい男と呑気にいちゃつくキャサリン・ハーン演じるお母さんの脇の甘さが素敵。俺は最初、予備知識ゼロだったから彼女で話を引っ張るのかと思ったよ。


 一観客として「ジョン・ウィック」へ。かつてチャールズ・ブロンソンも復讐の動機に選んだ気がする愛犬の喪失に、引退した殺し屋が遭遇した場合の「老人と犬」。しかも殺した相手はロシアンマフィアだ。何をやっても構わない。「マトリックス」以降の(続編も含めた)アクション映画は、アメリ同時多発テロを経ているのだから、「血で血を洗う報復とリアリズムについては当然こうならなきゃ!」という、チャド・スタエルスキ監督と、自身が監督作「ファイティング・タイガー」を経て辿り着いたキアヌの意向が反映されているのが窺える。つまり、素では聖人君子のような言行がよく話題に上るキアヌとは別の、俳優キアヌが現場を経て申し立てた作家キアヌとしてのエゴの延長が、「マトリックス」におけるキアヌのスタントダブルでもあった監督のエゴとともに反映されていると見ていい。依然ウォシャウスキー姉弟はその部分が取り入れないまま、もう作家としては役目を果たした状態のまま迷走しているが、監督作も含め「マトリックス」の延長線上にあるからこその苦言でもあろう。しかも香港アクション?「マトリックス」という同じ祖先を持つ、「リベリオン」における「ガン=カタ」と比較されがちなのは必至でありながら、宣伝側が「ガン・フー」と名付けた映画内体技の名称も正鵠を得ているように、敬意も欠かすことはなく、彼らにしても耳の痛い話ではないはずだ。もっとアクションに出て欲しいエイドリアンヌ・パリッキの脱落は惜しまれるが、復讐の動機がなくなったのに続編ができるという時点で「蜘蛛の瞳」を想起させられて期待も高まる。とはいえ、象が盗まれてまた象が盗まれる「トム・ヤム・クン」の続編とか、娘が拉致されて今度は自分が拉致される「96時間」の続編のようなことにならないと限らない。まずは“殺し屋”や“マフィア”というキーワードによる互いの侵食から、続編前に自分なりの「イコライザー」&「ラン・オールナイト」と合わせた一気見を敢行したいものだ。製作にエヴァ・ロンゴリアが名を連ねているのが意外。


 ムヴィオラさんのご招待で「キャロル」試写へ。トッド・ヘインズとの「アイム・ノット・ゼア」以来の信頼感からケイト・ブランシェットに委ねたのだろうが、彼女の存在こそが全てを支え、パーツの一つとしてボブ・ディランを表現しようと飛び道具的な役回りを演じた「アイム〜」とは完全に逆方向で、敢えて彼女の全魅力に依存したスター映画。ダグラス・サークへのオマージュというコンセプトから、まだメロドラマの領域に留まろうと意識して作られていた「エデンより彼方へ」よりも、当時の認識で同性愛の実在を(精神異常という解釈で)一旦認め、(精神異常扱いゆえに)あらゆる人権侵害を正当化し、徹底的に阻害し潰す、50年代だからこその、当時多くの同性愛者が味あわされたであろう容赦ない現実が描かれている。ルーニー・マーラブルジョワ臭くて特に好きな女優ではないが、貧乳でも脱ぎを躊躇せず、「ドラゴン・タトゥーの女」でも明らかなように、かつイノセントなイメージを提示できる意味では貴重な存在かもしれない。クリスマスのデパートにおける鉄道模型のディテールの細かさは、羨望のため息が出た。