まだ残り汁を少々。

 「何に?」なのか分からないけど、どうしてか、「時節柄間に合わない!」と思って、急き立てられるようにTwitterにも書いてしまったんだけど、以下改めて2015年のベストを再掲。推し理由は見た時のものとそんなに変わってない。

1.「キングスマン
2.「マッドマックス 怒りのデス・ロード
3.「アメリカン・スナイパー
4.「GONIN サーガ」
5.「私の少女」
6.「ターミネーター:新起動/ジェニシス
7.「6才のボクが、大人になるまで。
8.「野火」
9.「マップ・トゥ・ザ・スターズ
10.「ジョン・ウィック


 一観客として「コードネーム U.N.C.L.E.(アンクル)」へ。ガイ・リッチーもマシュー・ヴォーン同様スパイ映画を撮りたかったと。で、彼にオリジナル企画を任せるのは危険なため、当てがわれたのがマシュー・ヴォーンが「キングスマン」で捧げてた養父、ロバート・ボーンの代表作仕切り直しという案件。「シャーロック・ホームズ」的な新解釈アリなのかとも思えば、ナポレオン・ソロの出自をアレンジしている以外はちゃんとスパイものでありバディものでもある基本を、当時の音楽も駆使し冷戦時代劇のフォーマットに落とし込んで普通に楽しめるプリクェルになっていた。ソロが「マン・オブ・スティール」版スーパーマンでもあるくせ、案外人間味があり、相棒イリヤも「ローン・レンジャー」でもあるので、あの“(続きが作られることはない)エピソード1”の哀愁が本作にまで侵食してはいるものの、それなりにアクションや笑いや女の取り合いも激しく、争いの上位に君臨する、核を保持する悪役が「華麗なるギャツビー」でも、その巨大さとふてぶてしい美が目を惹いたエリザベス・デビッキであるというのが、60年代の冷戦時代劇のヨーロピアンなケバさとボンド映画にも通じる悪女の存在感両方を体現していて頼もしい(俺は彼女目当て)。一方、双方からの奪い合いになったり二人を出し抜いたりのアリシア・ヴィキャンデールの60年代ルックも似合ってなかった分、デビッキも引き立つ。最終的にチームがフィックスとなり、そのボスにヒュー・グラントが据えられるという点が、「スカイフォール」のレイフ・ファインズ→「ローグ・ネイション」のアレック・ボールドウィンに続き、見事に三段落ちになってるのは先行作への目配せだろうけど、個人的にはグラントが“元ジャンキー”とか、彼の“ダメ男感”溢れるキャラを知悉している設定だけに続編も期待してしまうのも事実で、リッチーが次に手がける、ホームズの手法で「アーサー王伝説」を手掛けるつなぎになってしまう可能性も高いため、気長に待ちますか。全く意味のないベッカムを出すならヴィニー・ジョーンズを使ってやってくれよ。


 一観客として「007 スペクター」へ。タイトル発表の時点で、単に権利関係クリアで使えるようになったDr.イーブル(ブロフェルド)を今さら出したい意志が窺え、それまで広がったクレイグ版ボンドの風呂敷を大幅に歪めるのを危惧していたが、事実その部分は異形の前作「スカイフォール」によってサム・メンデスが表明した回帰願望通り、伏線は辻褄合わせの駒として最小限にリサイクルされ、中でも(「GONINサーガ」における木村一八の扱いと同じ理由と思しき)「慰めの報酬」のドミニク・グリーンの存在が笑えるほど軽いが、姿を見せない代わり、スペクター本部に芝生を生やせたのは、第三世界の水資源独占を企んだ彼の功績と踏んでいる。この際新しいものが見たいか、お約束が見たいかで分かれるだろうが、いずれにせよクレイグボンドの総括として店じまいにかかっているのは辛い。「女王陛下の007」のように、あの後マドレーヌは殺されるか、“009”の“007昇格”を絡めた復讐を、カミーユ再登場によるシリアスな続編で見たい。レア・セドゥは「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」の影響で起用されているのだから、殺されるのも正しい使い方だし、「ヒルデブラント商会」とか遊びを入れている割にはチームプレイもIMF由来は明らかだ。とりわけ大切な女を守れず失い続けるクレイグボンドの定石には合致した続編になると思うし、次は25作目のアニバーサリーだ。クレイグ、降りていいのか?しかし、モニカ・ベルッチはずっと童貞っぽかったクレイグボンドに充てがわれた筆おろし要員としての贅沢感はあるものの、「マトリックス」の“パーセフォニー(キス要員)”以上に意味なさすぎるところが、「カジノ・ロワイアル」に続き、やたらチップを埋め込まれる健康面の負担増への心配、ちょっと唐突で無理のある拷問、前作のマザコンネタに対置する安易なファザコンネタという構造上の問題と並び衝撃だった。


 一観客として「ブリッジ・オブ・スパイ」へ。冷戦下のスパイ容疑者を、アメリカの法治国家としての正当性を担保するためやむなく弁護することになった弁護士が、反共ヒステリーの中、飄々とした容疑者の人間的魅力から友情を育んでいくプロセスには随所に笑いがあるし、鏡のメタファーや、橋を挟んだアメリカ人スパイの扱いとの対比が繰り返されるように、実話なのに強い寓話性によって、現在の日本を覆う条理や信念を欠いた右傾化と重なり見えてくる。やはり右傾化の煽りで理不尽な塩漬けになりかけた「不屈の男 アンブロークン」と共通し、右傾化を牽引する無自覚な当事者でなければ、ある種ヒステリックな状況に現在の日本が置かれているのも相対化できる作品だ。完成度はもちろんスピルバーグヤヌス・カミンスキーの画力のお蔭であるにはしても、圧倒的に悪条件下にある人間を立て続けにテーマにするコーエン兄弟にとっては、やはり究極の悪条件下の物語であった「白の海へ」の企画頓挫のリベンジかもしれないが、本作にはスピルバーグも交えたユダヤ系としての東西分断への思い入れも一際強く、重層的に諸作の流れと合わせて受け止めたくなる。“不屈の男”は皮肉にも世間の風当たりの強い方(弁護士ドノヴァンと容疑者アベル)こそに生じえるし、居心地のいい場所では見えず、逆境でこそ顕現する強さとかは「ヨブ記」のような不条理さすら感じるが、そうした局面でなければ強さは可視化されないのもまた事実なのだ。紛れもなく俺は先の大戦は知らないが、冷戦は知っているし、その終わりと新たな対テロ戦争も知っている。いずれ忘れ去られる世代や証言者の一人として、その始まりがビジュアルで徹底して再現される贅沢さを見ると、やはり“作られなければならなかった映画”だというのが分かる。トム・ハンクスはともかく、周囲があまり見慣れない出演者で固められているのも、スピルバーグらしい配慮でのめり込むことが出来た。


 ソニー・ピクチャーズエンタテインメントさんのご招待で「ザ・ウォーク」試写へ。ツインタワーがあった事実、世界一美しい誰も傷つけない犯罪は、あからさまに暴力の応酬の不毛さの象徴としてツインタワーを出した「ミュンヘン」や「ウォッチメン」の企てにも似て全く非なるアプローチ。それでいてテロよりもはるかに価値がある創造を主人公と共にやってのけた。作るものが政治的な保守性をメタファーとして込めすぎてこれまで物議を醸してきたゼメキスだけに、テロ自体をなかったことにしたいがためのツインタワーのディテールとも勘ぐってしまったが、まだテロが風化していないと辛うじて言える現在においては、タワーを出すこと自体がテロへの振り返りとなり得るし、テロをなかったことにしようという動きへの牽制にもなっている。だからこそ賞レースから無視されたのだとの思いも見ているうちに深まった。何よりドキュメンタリー「マン・オン・ワイヤー」では省かれていた実際の綱渡りの過程が焦らしとともにじっくり描かれているし、彼にとっては恐怖の瞬間などではなく、望みに望んだ至福の瞬間だからこそ、その描写の執拗さと3Dという上映方式の本当の意味を思い知らされる。もちろん俺は高所恐怖症だが、それを措いても個人的には「アバター」や「ゼロ・グラビティ」以上に劇場のスクリーンで3Dメガネを着用して見ないと、“体験”にはなり得ないと断言しよう。