太陽の死と、ばあさんの死。

 20世紀FOXさんのご招待で、「サンシャイン2057」試写へ。太陽へ挑むSFと言えば、タイトル的にも内容的にも「クライシス2050」を思い出す向きもいるだろうが、これはダニー・ボイルの新作であり、アレックス・ガーランドとの三度目のタッグである。しかも主演は一応キリアン・マーフィー。ということは、あの超傑作「28日後・・・」の絶望的な世界観がよりスケールアップしていることを期待すべきだ。

 結果として、それは裏切られなかったし、奇しくも「28日後・・・」の続編「28 weeks later」のティーザー・トレーラー解禁と重なっているが、あの作品で言いたかったのは、ゾンビ映画まがいのストーリーよりも、「女は未来だ」のセリフに代表される女性賛歌だったんだ。それが今回、テーマが女=太陽に替わっているだけだって別に構わない。何度同じ手を尽くそうが、どれだけ新しい価値観やビジュアルが提示できるかがSFのキモなのだから。

 そして、それは部分的には成功しているだけに目が離せない。言うまでもなくSFとはロマンである。それに良質のSFは哲学だ。そこにリアリティのある科学考証やハッタリがない交ぜになって、良質のSFビジュアルは生まれるのだ。そんなものの中で突出した表現を見せきることがどんなに難しいかは想像に難くない。はっきり言って、SFこそが究極のファンタジーであり、カリカチュアライズであり、一番自由なジャンルなんだから。SF的なスタイルを採用していることこそが、真の文学を構成する条件かも知れない。

 ただ、どうも結果的に主題になってしまっている、「宇宙に行くことによって起きる意識の変容」ってものが、同じく意識の変容が起きるにしても、ああしたキリスト教的価値観に根ざした単純な狂気に陥ることではなく、起きるならもっと人間存在の全てを根底から覆すような意識変化が起きうると思う。でも、それだけに全く想像もつかない領域ではある。まぁリアリティのある未知の世界へのハッタリで乗り切るのも作家の資質だし、誠実に閉鎖空間故の「シャイニング」的な狂気を見せてくれるのもまた作家の資質である。

 だからこそ、「2001年宇宙の旅」や「コンタクト」に連なる、哲学SFに新しい切り口を提示してくれる事を期待していたが、それは果たされる事はなかった、と一瞬思ったが、そう断言できないこともないことにも気付いた。なぜなら、ここまで書いてふと思い至ったが、このあくまで科学に支配された冷徹な世界観こそが、科学の果てに“神”や“優しさ”といったファンタジーを否定する、よりキューブリックの提唱した世界観を進めた形、であるとも言えるからだ。甘くはない。それは覚悟しておいた方がいい。

 とはいえ、俺がふと思い至った仮説がもし当たっているならば、力(=太陽)であるならば、抗し得る力(=核エネルギー)は、事の是非など超越して、人類にとってはもう、核だけしかない事は「博士の異常な愛情」で既に提示済みなので、それだけキューブリックの普遍性が証明されているとも言えるし、さらに言えば、そうした究極の自然、究極の力、究極の愛であり、暴力でもあるこの力に触れているからこそ、その憧れを一筋にこうした力を人類は見いだせたのだ。深き愛故に、その激しすぎる暴力性故に。

 加えてガジェット類に関してのデザイン性はほぼ完璧だが、唯一、船外活動用宇宙服についてのみは、実用性からあの形になったというのは設定上充分に理解できるが、あのキンキラ具合(キングキドラ or マンダ)+モゲラ的な武骨なデザインが、宇宙船“イカロス2号”自体はリアルであっても往年の東宝特撮の様なハッタリに見える(考証重視の形態に見えない)のは皮肉な話だが、直撃世代ではない俺にはピンと来ないにしても、それはある意味東宝特撮の正当性が実証されたという事になるのかも知れない。

 それにしても、試写の間中、電話のバイブが異常に鬱陶しく、一部では集中力を殺がれる箇所もあったのは事実だ。しかし試写室を出てきてその原因を突き止めたら、それはその週末に見舞いに訪れる予定だった母方のばあさんが、間に合わず呼吸不全で死んだとの知らせだった。もしやとは思ってはいたが、何しろ91歳だ。俺にはとうていたどり着けないであろう道程を来たわけで、それ自体に畏怖と労をねぎらう感覚はあれど、悲しいという感覚は殆どなかった。正月に会ったばかりだし。

 急遽実家に駆けつけ、親戚一同のイベントに参加することになった俺は、前回にも書いていたケツの穴及びウンコ絡みの体調不良に加え、得体の知れない人格改造薬を多量に投与されている身である。当然それはそこでの生活にダイレクトに影響を及ぼし、眠れない、クソが出ない、息が苦しい、暴力衝動が抑えられない(これは今回に限ったことではないが)等の諸症状に悩まされることとなる。それでもケミカルな依存を脱して、ナチュラルな自由を獲得したいので、医者には内緒で薬の量を徐々に減らしている試みを続けていた。だがよ、そうなりゃ当たり前のように汚ぇ、「○○子(別にマンコのことではない)・・・。○○子・・・。」みたいな、淫売でありながら俺を殺そうとしている狂人の名前はより激しく明滅するわけで、鬱陶しいわ、怒鳴りたいわ、それが頭から逃げないパニック状態に陥った。

 それだけではなく、俺とその気違い女の関係を知っている人間が一堂に集まるのだ。会わせたお前が悪いと言われればそれまでだが、心を全部預けない卑怯者には出来ない芸当で、心を全部預けてしまっていた状況の俺に、例え狂人でもそんな「血縁者全てに会わせて欲しい」という要望を無視するわけには行かず、どいつもこいつもそのビッチを知っている有様なのだ。死んだ当人のばあさんさえそうだ。よって、この腐れ女はそんな覚悟もなく、その気違い夫、もしくはそれ以上に、自分の何倍もの先を行くばあさんの人生すらも、末期において汚したことになる。

 人間が人間を殺す、というのは、戦争のように状況によっては罪にはならないが、人間が人間の死を貶める、または汚す、というのは、最近のイラクにおける英兵のドクロフェラ写真のように、断罪はされなくても、歴史上では愚行として後々まで語られるものだ。

 それをこいつはやりやがった。本来なら万死に、前近代なら死罪に値するものだ。

 というのも、今回が初めてではない。俺が最晩年まで同居していた父方の祖母が死んだときも、「沖縄出身で作法がよく分からない」ことを理由に、告別式に記帳し、出席の意思表明をしながら、それ相応の服装までして、靴だけ置いて逐電、式数時間後にようやく連絡がつく、という狂気と悪意に満ちた愚行で、既にもう一人のばあさんの死を貶めているのだった。もう絶縁している気違いなので、それはそれで良いが、そういうことを知っている奴が集まっているし、その気違いをいいように利用して、自分の新婚旅行を有利に運ばせようとした更なる食わせ者もいる。恥ずべきことにそれが俺の弟夫婦なのだから堪らない(事実、その新婚旅行を契機に、その女の気違い度は性的絶頂を迎えるグラフのように、急角度で加速していった。例:以前書いたマンコとケツの穴にバイブをスイッチONで突っ込んで、睡眠薬で眠りこける、みたいな行為を日常的にするようになった、ってことだ)。

 酒が入った勢いとかで、下らないことの一つでもその件について言うのなら、「テメエは野グソでもしてりゃいいんだよ!」(by「3-4x10月」のガタルカナル・タカ)と、灰皿でブン殴ってやってもいいなと、常に灰皿の位置を捕捉している心労までこいつらは与えやがった。だがそういったことにも俺の狂気にも匹敵する忍耐のおかげでならず、それでも気が昂ぶって、寝ることも出来ないし、忌まわしい記憶のある場所兼、忌まわしい記憶を知っている人間に囲まれ、フラッシュバックが加速、という滅茶苦茶な状態になった。

 そんなどうでも良いことを書いていると思われるかも知れないが、そんな俺が一瞬貪った眠りの合間に、ばあさんは涅槃からやって来て俺を助けてくれたのだ。分裂した人格の、純情ではない、俺の劣情の部分が最も愛するミューズ、AV女優兼「高級」ソープ嬢の山口珠理さんの姿をして。俺はその短い眠りの時間に、山口さんとヤりはしなかったが、結婚したのだ。実際そんな頻繁に顔を出せない高級店の“公人”故、お相手をしていただいた山口さんは、単なるセックスワーカーを超越して、実に素晴らしい女性だった。吉原の遊郭が今も現存していたら、“太夫”レベルは間違いない、知性と品格と優しさがあるのだ。“公人”なんだから、俺はそんなのジェラスしないし、何なら山口さんの在籍する吉原の高級店(今は「石榴」http://www.club-zakuro.com/かな?)へ行ってみるとイイ。俺がいかにいつも本当のことしか書いていないかよく分かるぜ。

 そのお陰で、式も通夜も、俺は一切取り乱さずに、唯一残った復讐衝動への暴力のみのフラッシュバック以外は、以前お相手いただいたとき、山口さん自身があまりされるのは好まないと言うことで、唯一出来なかった、山口さんへのクンニのことだけ考えていられたのだ。ルックスのことだけではない、素晴らしい女性に奉仕するのは、その想像だけでクンニストには死ぬほどの光栄であり任務なんだ。これはばあさんがくれた“夢”と言う脳内麻薬に他ならないと確信している。それは、ばあさんが俺に人生初の駄菓子体験をさせてくれたのと同じくらい偉大な瞬間だ。まさに宇宙人が猿に与えたモノリス。ちなみにそれは、ヨ−グルトでも何でもないのに、それ風の容器に入って酸味のある、クリームみたいな「ヨーグル」ってもんだった。ガキは感動するが、最近食ったら気持ち悪くなる程の粗悪品で、それでもそのケミカルな味は忘れがたい。でも、それが山口さんのマンコに塗りつけられていたら、それ自体のクリ−ムっぽさが本気汁的だし、そこで舐め続け、ヨーグルのバッドな美味と、山口さんへの甘美なクンニに陶酔しながら死ぬ覚悟は出来ていることは、この際しっかり書いておきたい。山口さんとはそういう、観音様なんだよな。

 それにしても、最も驚いたのは非常に多くに日常的な記録を最晩年までノートやメモに記述していたことだ。「〜でせう」なんて記述を幼少時から習ってきた最後の世代であり、生前のじいさんに殴られたら「早く死ね」などと実にラジカルで詩的なことをひらがなのみ、もしくはカタカナのみで書いているのだ。しかも、どんどん周囲が先立っていく寂しさと、残される哀しみ、混濁していく意識、しかしそこまでは混濁していないのに周囲は周囲で馬鹿にし切っており、その同調することへの面倒くささ、その誤解に拍車をかける身体の衰弱、などがもの凄いリアリティで迫ってきて、これは個人的に複写したいくらいの過激で生々しい詩だと感動した。最も素晴らしいのは、“俳句”と称していても五・七・五でもなけりゃ、季語すらも入っていないものがあると言う点だ。こんなアブストラクト、素晴らしすぎる!ジジイなら確実にブコウスキーっぽくなっていると思う。

 父方のばあさんは元々ちゃんとした俳人で、(俺にとっては本当に寝食を共にしてきて、恩讐を超えて、こちらが“ばあさん”で、今回逝かれたのは“ばあちゃん”でしかないのだが)それはおいてもそのばあさんと同様、今回のばあちゃんも俺の中に入ってきた気がした。といっても、ばあさんやばあちゃんの成れの果てが、言うまでもなく“俺”なので、一緒にいる、というか、細胞レベルでまさに俺自身の一部と今回より強固な関係になったと、改めてそう思う。それは自分を、今回のばあちゃんに対して、周囲がガキに接するように猫可愛がりするのかというと、そうじゃない。俺の中にいる、二人に増えた“原因”を常に深く認識しながら、今まで通り生きていくだけだぜ。その覚悟をくれた、俺にとっての、じいさんとか、ばあさんとか言える世代の全滅。一つの節目。

 これからは、もうずっと一緒だぜ。俺そのものなんだから。綺麗事でなく、俺の狼藉も見よう。俺を通して、今まで見られなかったものを、一緒に見よう。そして、知性で溶け合おう。
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