ブリタニー・マーフィは完成した。他。

 実は人間は誰もが“ブロブ”のように不定形である。常に変動してゆく、あるかなしかの骨格に、表面としての軟体物が絡み合っているだけの存在に過ぎない。人間に潜む“美”というものが、もし本当にあるとするならば、これらの常にグニャグニャと動き回っているものの、一瞬の静止状態が切り取られた時、たまたま美しく見えるだけなのであって、その美しさを発した存在自体が美しいわけではないのである。
 従って世間で呼ぶ“美人”という存在は、たまたまグニャグニャとした不定形の中で、瞬間的な美を発する頻度が、単に比較的高い者のことを指すというだけのことで、その者自体が美しいわけではない。もちろん、そうした頻度が低い、あるいは全くないという不憫な者も、そりゃいるにはいるので、そうした者は“ブサイク”と分類され、人類の作り出した集団にしがみついて生きる上では、“ブサイク”とは分類されない方が、どちらかと言えば“生きやすい”のだろうが、だが両者の不定形性、平たく言えば“グニャグニャさ加減”においては、実は大した違いはないのだ(『猫目小僧』の「妖怪肉玉」編に登場する、“グニャグニャ症”とは関係ない)。
 なぜならブサイク顔になることができない美人というものは、現に人間である以上“絶対に”存在しないし、その数字は天文学的確率であっても、ブサイクが瞬間的に美しさを発することだって、可能性としてはゼロとは言い切れないからである。
 つまり、今更言うことでもないかもしれないが、(“成長する”という現象とは別に)不定形なものが変動する長期的な振幅を愛でる上での“美”というものは、自然の風景などを見ても、常に人間が注視することは時間的に不可能なので存在しないと言ってよく、それはそうした流れの中から抽出され、固定化されたものが一番美しい、ということを示すのである。そうなると当然、人間として生きる限り、固定化された状態で生きることなどできず、生きた人間が恒常的な美を獲得することも不可能ということになるので、そんなものを追うこと自体は完全な無意味だと言えるわけだ。この無意味に関しては、無意味の蓄積がやがて意味を持ってくるということには、残念ながらならない。
 また、一口に“瞬間”といっても、これは角度だけのものや、ある瞬間からある瞬間への動き、という限定されたものを含むのだが、そうしたものを切り取るために、人類は美しい瞬間の固定化・定着手段として、絵画や写真や映像などを発明してきた。
 しかし、それでもすべての人間のすべての表情は、所詮不定形であるがゆえにブサイクになる可能性からは絶対に逃れられないので、その可能性の払拭、即ち人間自体が固定化された存在として生きられるように進化することができない限りは、本当に美しい人間など決して現れないし、その代替物としての美術もなくならないということだけは断言できる。
 逃げ道は、極端な変化の振幅に敢えて身を置いて、“美”の隙間を“可愛さ”とも解釈できるように埋め尽くすことだが、これではもう“美人”とは言えない。あと一つ、美しさの頻度が最大限に発揮されているうちに死んでしまい、人々の記憶や記録に留まる方法もあるが、これもまた人間という範疇から逸脱してしまうので、俺はこれを手段としては認めたくない。だが確実に後者は“美”としての完成は間違いなく果たすことはできるので、去ってしまった彼女は、間違いなく誰も反駁できない地点まで、その“美”を完成させてしまったのだ。薄命でなければ、“美人”とは呼び得ぬ理由がここにある。


 一観客として「ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵No.1と呼ばれた男 Part1ノワール編」へ。最初に指摘しておくと、書物や記事でメスリーヌのビジュアルに触れてきた人間にしてみれば、ヴァンサン・カッセルは地の顔があまりにもメスリーヌには似ていない。だが、似てないけど入り込みようが激しく、その意気込みから、一気呵成に引きずり込む只ならぬ空気を放っているので 自身が発刊当時死んだばかりのメスリーヌを戯画化して始められたような小説の映画化「ドーベルマン」(81〜)によって「憎しみ」等のチンピラ脱却を図ろうとし、失敗したが、この二部作でようやくチンピラ脱却が果たせたと言える。前編に当たる本作への分類も、邦題としては当を得ていて、最高の盛り上がりを見せるのが脱獄場面であるように、目指したところは「穴」のようなノワールであろう。なぜならメスリーヌを取り巻く警察や矯正機構を、情感など一片も入らぬ硬質かつ非人間的な世界観を踏襲されているからだ。ハリウッドで「アサルト13」を撮ったジャン=フランソワ・リシェ監督ならではの権力への不信や挫折感を継承しているとも言えるが、メスリーヌと不信が共鳴し合うヒロイン、セシル・ド・フランスとの暴走を強めに描くことによって、単なるメッセージ性を突き抜け、娯楽としてのカタルシスも非常に強いので、続けて二部作が観られた日本の上映は適切だ。


 一観客として「ジャック・メスリーヌ フランスで社会の敵No.1と呼ばれた男 Part2ルージュ編」へ。続けて観ても観なくても、似てなさ加減からのカッセルによるアプローチは本作の方が強く、実際先に撮影が始められたのも納得である。要するに「ラスベガスをやっつけろ」のベニチオ・デル・トロに匹敵する腹の出っ張り具合を「見て見て!」とさらけ出しており、デル・トロ繋がり、さらには“二部作”繋がりで、ゲバラもやってのけたように、メスリーヌの有名なハゲ変装を再現したのも感心ではある。そして「『チェ』二部作」よりも二部作作品として、有機的に絡み合っている作品と断言できる。ただし物語や演出も前作とは意図的に変更し、こちらは「ヒート」ばりの男の対決映画であることに加え、メスリーヌの葛藤や理不尽な凶暴性に肉薄している。当然、犯罪者人生も本格化しているのだから内容も派手には違いないのだが、前作の冒頭に近づくほどに、重く虚しさも増してくる。ただ、彼が最後の愛情を注いだ存在としてのリュディヴィーヌ・サニエが時折重さを払拭してくれ、後半ほど警官視点も重層的に混入されてくるので、さほどの悲壮感はない。そうは言っても射殺死体の描写は、実際のメスリーヌの射殺直後の写真に即しており完璧である。フランス版のポスターはこのどアップだったわけで、再現度においては作り手の自信が窺えたし、事実評価できる。


 一観客として「PUSH 光と闇の能力者」へ。恐らくシリーズ化は無理だが、全編香港ロケの志は買える超能力アクション。やや「炎の少女チャーリー」入っているが、関連性はないということにしておこう。主役の「The Avengers」に合流させるために、ハード路線として仕切り直しをせざるを得ない状態になった(ために排除の可能性が高い)“ヒューマン・トーチ”ことクリス・エヴァンスはどうでも良く、カミーラ・ベルダコタ・ファニングが出なければ見なかった作品である。ただ、ファニングはまだ歯列矯正中で、笑顔をあまり見せないため、成長に伴って窺える“シャクレ美”の萌芽しか見ることができないが、これは時間が解決するだろう。対してベルは(「プラクティカル・マジック」の頃から分かっていたが)完成の領域に入っており、これがアメリカ的な食文化受容か、それに反するかで、どちら側に奇形化して行くかは楽しみである。別の映画の話だが、「ジョイ・ラック・クラブ」で異常な美しさを見せたフェイ・ユーは、年月の加わった「千年の祈り」で年相応の劣化(成熟)を見せてくれたが、同作で主役だった“国際的な初代・春麗”ミンナ・ウェンも本作に出ており、劣化がないどころか 手袋を外さないことでフェティッシュな官能性が凄まじい。ちなみにジャイモン・フンスーは「ル・ブレ」以来の非・土人(奴隷)役で、一応悪役だったりする。マックィーンの絶対の危機 (ピンチ) 人喰いアメーバの恐怖 [DVD]ブロブ?宇宙からの不明物体? [VHS]猫目小僧 3 (サンワイドコミックス)猫目小僧 2 (ビッグコミックススペシャル)ドーベルマン [DVD]憎しみ [DVD]アサルト13 要塞警察 [DVD]ジャック・メスリーヌ / パブリック・エネミーNo.1 Part.1 [DVD]穴〈デジタルニューマスター版〉 [DVD]ラスベガスをやっつけろ [DVD]チェ ダブルパック (「28歳の革命」&「39歳別れの手紙」) [DVD]ヒート プレミアム・エディション [DVD]炎の少女チャーリー【字幕版】 [VHS]ファンタスティック・フォー[超能力ユニット] (ベストヒット・セレクション) [DVD]ファンタスティック・フォー:銀河の危機 (特別編) [DVD]プラクティカル・マジック 特別版 [DVD]ジョイ・ラック・クラブ [DVD]ストリートファイター SE [DVD]ル・ブレ リミテッド・エディション [DVD]