悪魔と悪魔と、ちょっと不可知論。
クロックワークスさんのご招待で「ラスト・エクソシズム」試写へ。監督はともかく、プロデュースが信頼できる男、イーライ・ロス。そして彼は「ホステル2」でもルッジェロ・デオダートに出演してもらって明らかなように「食人族」が大好き(俺はその愛にあふれたパスティーシュとして『ありふれた事件』の方が好き)。そこにもう使い古されたはずの“悪魔払い”ジャンルを融合させたニセ・ドキュメンタリーという点が「REC/レック」みたいな安直でゾンビでもオカルトでもない中途半端さではない本気を感じる。しかもこれがヤラセであったり“悪魔憑き”が絵空事であるという点に当事者たる神父も撮影するクルーも自覚的なところが醒めていて気持ちいいし、過去の類似作へのネタばらしも兼ねている。とはいえ狂信者のための心の安定にボランティア的に尽してはきたが、そんな認識に嫌気も差していて、最後に引き受けた仕事という意味と、そこで起きた計算外の出来事がダブルミーニングのタイトルになっている。だから“悪魔憑き”描写はあくまで紋切り型に徹し、徐々にシャレにならない事態に引きずり込まれていくのはこの手のジャンルが逃れ得ないオチとしては、“悪魔憑き”ではなく、「エクソシスト」より前に製作された“悪魔”そのものを描いた旧作(なぜ“悪魔憑き”に遭うのは若い女ばかりなのか?の解答)にも敬意を表しており、やっぱりこの男が“わかってる男”としての証明になっている。
一観客として「デビルクエスト」へ。「キングダム・オブ・ヘブン」より後日、戦い疲れて顔面も毛髪も異形になり果てた十字軍の騎士ニコラスは、疫病の原因と判定された少女を審問の場への護送を押しつけられる。一応観客や主人公たち一行をミスリードさせるような得体の知れなさとイノセンス(それは美人だかブスなんだカ良く分からなく撮られているということだ)で、少女はパーティーを道中惑乱していく。しかも途中からもう疑惑でも何でもなくなり、悪魔の存在が前提の世界というのがなじめないと無理。背景としては奇病が蔓延し、蒙昧・狂信・不寛容が作り出したミソジニーの暗黒を描きたいんだろうが、問題は特別出演・クリストファー・リー枢機卿が体現するように、奇病がペストだか別種の業病だか判然としない描写に徹していることにある。感染経路が判然とせず、「グレート・ウォリアーズ/欲望の剣」みたいな生物兵器としての利用法も編み出せないのだ。当然、悪魔関係の描写もいい加減で、悪魔そのものではなく少女が憑依されている根拠や、またその状態が“魔女”なのか、詰めの甘さが何か「デビルスピーク」を思い出しちゃったよ。ちなみに「パブリック・エネミーズ」の“ベビーフェイス・ネルソン”ことスティーヴン・グレアムがトリックスターとして登場し、首枷を着けられて登場するんだが、そのディテールは当然「セックス・クラブ(チョーク!)」のそれより作り込まれている。こうなりゃ復活するシュワとヴァーホーヴェンに幻の企画「CRUSADES」を実現してもらわんとな。
一観客として「ツリー・オブ・ライフ」へ。「シリアスマン」に続いて、また「ヨブ記」かよ、という出だし。でも別に思わせぶりな引用だけでさほど関係なし。しかもあのオチのせいで誰もが「丹波哲郎の大霊界」と指摘しているが、そりゃ丹波哲郎だって予算さえあれば本作以上のものを作ってのけただろうよ。むしろそうした宗教的な補強を得て、自信のないながらも、意識の生ずる前の観念が見ている宇宙として、「ドグラ・マグラ(胎児の夢)」などに近いアプリオリなものがあると仮定してビジョンを展開したかったのだろう。確かにハッタリでも一見の価値はある荘厳なスペクタクルだ。それでも全編そうした調子じゃないのは安心したが。息子は成功しているはずなのに苦悩し続け、それが物質のみで心なき時代を象徴しているとでも言うのか、「バッド・ルーテナント」のハーヴェイ・カイテルばりに終始苦悶の表情を浮かべ続けている。だがそのひねた感じが絶妙に似ている子役によって演じられる父親との葛藤の日々は、かつての悪ガキなら誰でも思い当たる痛みと蛮行の数々であり、交錯する母の静謐さと父の冷徹さは神話のように象徴的だ。そしてスクエアでマッチョな父親の役を作り込んだブラッド・ピットが、その押しつけがましさも含めて俺には段々「フォーリング・ダウン」の“Dフェンス”に見えてきた。そんな人間どもの生臭さなどとは関係なく、天体の運行は迷う人間たちの唯一の指針でもあるかのように、相変わらず木漏れ日だけが、我々の視覚に刺さるように、撫でるように美しく映えるばかりだ。