映画冥府魔道、というほどでもなかったが。

 今月一日は二本(時間的には三本)。一発目及び二発目は「シン・シティ」だぜ。待った甲斐があったと言うべきか、出来が良かったと言うべきか、単にベタ誉めしては、吐く言葉全てを陳腐にしてしまう、とにかく、凄まじい傑作だ。そして、孤高にして普遍の愛の物語。少なからず映画についてグダグダ言っている連中を悉く沈黙させちまいそうな勢いだ。俺ももちろんその一人だし、それは俺のこの作品への敗北を意味する。だからまた行くつもりだ。ミホはスチールだけだと、というかデヴォン青木がキモイ気がしていたが、動いているのを見ると印象がガラリと変わった。殺しまくりだが、そのキレイなハートにやられたぜ。男はもちろん、女もキャラにダメな奴が一人もいないのが凄いよ(特にミッキー・ロークベニチオ・デル・トロはヤバい)。汚い愛に生きていない。命がけで、愛して、生きて、死んでいる。
 原作へのリスペクトは作者自ら監督として関わっているんで申し分なく、漫画の映画化、と言う意味でもこの完成度は現時点では究極だろう。でも、もともとフランク・ミラーに映画を撮るスキルがあったのなら、この原作のような、フィルムノワール調で白黒のコントラストの強い、チャンドラー調でセンチメンタリズムの強い、かつ強烈なバイオレンスを含む厭世的な作品を、漫画というスタイルでは発表していないはずだからだ。よってこれが実写のビジュアルとしてフィルムに焼き付けられたことで、初めて原作も含めた「SIN CITY」ワールドは真の居場所を見出したのだ。今回のそれは、ほんの手始めに過ぎないが、それはロバート・ロドリゲスの手柄。
 漫画の甘い絵で、その狭い世界観に満足している日本のコミック作家(日本の尊敬すべき漫画家諸先生方は除外するために、現代の一般的な「甘い絵」書いている奴らを軽蔑的にこう呼ばせていただく)よ、こんなんでいいのかい?加えて、こんなどん底で孤高を貫いている男たちの素材、日本にもいくらだって転がっているだろうに、もったいない上に悔しさもちょっぴり感じた。だったらテメーがそれを形にしろよ!ってなもんだが。愛に死ねなかった死に損ないが吐ける事じゃないかもな。

 その次は「せかいのおわり」。予告編見たときに、過去がフラッシュバックするかのように実体験と重なったので、観ずにいられなくなった。俺は今でも「せかいのおわり」の後を虚無で生きているし。分かっているよ、そんな女に裏切られて死ぬほどの痛手を被ったとは言え、その程度のことで「せかいのおわり」と言いきってしまうのは、自分が「世界の中心」だと錯覚している俺の敵どもとつまらぬ上に尊大な自己憐憫を共有していることに図らずもなってしまっていることは。でもな、普通に映画を見るのとは違う気持ちでこの映画に接しないわけにはいかなかったんだ。その理由は・・・。
 1.俺を破滅に追いやった「生まれながらに腐っていた」「死ぬほどいい女」(byジム・トンプスン)が、
 主演の中村麻美に似ている。
 2.ヒロインとその幼なじみがラーメン屋で煮卵の白身が食えないだとか、黄身が食えないだとかのやりと
 りが、俺の身にも実際にあった。
 3.「淋しいときは『ギューッ』として欲しい」(要するに抱きしめる、ってことだ)ってセリフを、俺も
 言われたことがある。
 ってことにおいてなんだ。しかも本編観たら一部ロケ地は沖縄(破滅させた女の生地だ)、しかもヒロインは追い出されては無防備に知り合った男の所に転がり込む無自覚なビッチなのであった。こういう女を本気で愛してしまったら、後は破滅しかないし、遅かれ早かれ、それは来る。でも観ずにはいられなかった。結論は用意されていない映画よ、やっぱり。俺はそれとは離れたところで観たし。
 そして夕べ、現在深刻な恐喝事件(諸事情により通報は周囲の圧力によってのみ断念させられる)を起こした正体不明の男と、その女両方を、俺が処刑する夢を見た。拘束して、頸動脈を切断し、失血死させていた・・・。

 扶桑社文庫「本末転倒の男たち」で主人公は、故あって国外逃亡し、父が殺された事を知ってイギリスに舞い戻った主人公が、復讐の機を窺いながら、潜伏先でひたすらエルモア・レナードを読みあさる描写が出てくる。確か「スワッグ」「グリッツ」「ラブラバ」という具合に。だから俺もその順番で読んでみたわけだ。今回の読了は「ラブラバ」。本当に深いフィルムノワールへのオマージュになっているね、これはあとがきでも指摘されていることだけど。読み口は軽く、情動は重く、響いてくる探偵小説賞受賞も納得の緊迫感。ま、レナードなんで描かれる犯罪はあくまでチンケなものだけど(誉め言葉だ)。
シン・シティ:ハード・グッドバイ (JIVE AMERICAN COMICSシリーズ)本末転倒の男たち (扶桑社ミステリー)ラブラバ (ハヤカワ・ミステリ文庫)