雑感・・・。

 先日、誕生日を迎え、俺もまた一つ齢を重ねた。撮ってもらった写真を見ると、重ねてきた憎悪に曇らされたために、まるで死期の迫ったジャンキーのようなツラをした俺がいた。
 そして気づけば、時間は確実に優しくなっていた。もう、おぼろげにしか思い出せないほどに。それが単に落ち葉で覆われているようなもので、ちょっとした風が吹けばすぐに傷口が姿を現してしまうようなものだとしても、この感覚は現実に感じているものだと信じたい。ただ、同時に襲って来ているのが、否応なしの孤独という現実、または徐々にその姿を現してきた、人生ってやつの正体であることは、生き残ることしか選択の余地がない俺は、忘れるべきじゃないだろう。この、恐怖を。痛みを。

 それと同時に浮かび上がってくるのは、それとは別の一つの考え。

 溺れる者は、藁をも掴む。俺はまさに、その溺れる者だから、手当たり次第に掴んでしまおうとする。だがその掴まれようとしている藁ともいうべき存在は、ただ手近にあるというだけで掴まれようとしており、溺れる状態を脱した時に、いつまでも必要としていられる存在かどうかは分からない。自分ではそう思いたくないけど、俺自身が本当に溺れる者なら、掴む藁なら何でもいいと考えているかも知れない。そして、他者をそんな風に見做してしまっている時点で、大変に礼を失している訳で、それはこうした感情の流れを作った当事者に、そのいきさつを伝えるかどうかに関しても、大きな障害になっている。
 確かに、ここまで考えて、手当たり次第でないことも、ちゃんと相手を見て選んでいることも、自覚できた。それにそのことばかり考えているのは、ある種の執着する感情が芽生えているからだろう。ならば、あとは、伝えるだけ・・・?

 それと今日は、「不憫な妹」が嫁いだ話題でもちきり。いや黒ちゃんってのは本当どえらい男だ。俺にはその世間的なプレッシャーとか、これから背負い込むものの大きさ、仮に心の交流があったにしてもそのリスクの上にある相手のルックスなど考えても、あらゆる意味で無理だね。単純に凄いと思う。ってそんなことはどうでも良くて、中でも皇室べったりの過剰な阿りを感じる日テレの取材攻勢の中、皇室担当記者の「鈴木あづさ」さんという記者の談話を見て驚いた。これってバイトで一緒だったあづちゃんじゃん。元気にやっているみたいだね。俺のこと覚えているかな?俺はあづちゃんの誕生花がひまわりだったんで、誕生日にひまわりの種をやったことを覚えている。っていうか、俺が社会的に抹殺されていても、世の中が動いているって事だ。ともすれば、自分中心の世界、みたいな錯覚に陥りがちなこの孤独の世界、それに対する戒めとして、大いに驚かせてもらったよ。まぁ、頑張ってくんな。陰ながら応援してるぜ。

 そんな中読了したのは釣崎清隆、アイカワタケシ共著の「ファイト批評」。釣崎さんの文章からにじみ出るやさしさが微笑ましく、アイカワさんの投げているようで、的確に批評し、かつ表現者としての姿勢を何度も訴えている姿勢に感銘を受ける。そんなの抜きにしても面白く読ませる文章だからいいんだけどね。俺はとにかく死体写真や必要以上の露悪的なものが苦手なので、「BURST」連載時からこの映画評は注目して読ませてもらっていたんだが、買って手元に置く気になれなくて、こうしてその映画評がまとまって出てくれただけで単純に嬉しいね。ファイト批評―映画・喧嘩・上等 (映画秘宝COLLECTION (33))