大脱線!でも言いたいこと。

 昨日は前から行きたかった品川ツアー。それも俺的な目玉は東京食肉市場だ。
 以前から生と死の考察を深めるためには必要不可欠な場所だと思い、巡礼したかったんだ。我々は例外なく生命を貰って生きている。俺も含め、果たしてそのどれだけが生命を奪って生きるに値する生命なのかは疑問だが。ともかくそんな当たり前のことすら伏せられて、見え難くさせることで、この世の中は出来上がっている。
 それが生きる痛みや罪の意識を麻痺させるからだ。そうすることで気付きもしない奴らは見せかけだけの生を謳歌して、カネを落とし、上っ面の潤いに目くらましされ、世界はますます澱んでいく。
 仮に世の中はそんな構造じゃないとする偽善者がいたとしても、世の中は隠されている部分が確実にあり、気付いていない事は紛れもなくコントロールされているって事で、それに気付いて、自発的に見つけようとしない限りは主体性を持った人間とは言えないし、そんな奴の人間性や自由など、生命を貰って生き永らえてはいても、生命とは呼ぶに値しない不完全なものだ。
 だから俺は見たかった。見て、受け止め、大いに感謝して、大いに食べまくるタフさを獲得するために。革ジャン信奉者だしな。これもまた、俺自身の生命としての欠落を補う、重要な作業なんだよ。
 実作業は事前に申し込まないと行けないらしく、見ることは残念ながらできなかったが、そして感じたのは先に挙げたように、生命を貰うことへの感謝、畏怖、厳粛さだけでなく、その作業に従事する人々への、単純な尊敬の念だった。だって単純にもの凄い重労働だ。
 俺はかつて長野に旅行した時に、牛の頭に銃を当てる作業の担当をされている方に話を聞いたことがあるが、俺はそこに生命のやり取りと呼ぶにふさわしい厳粛さと崇高さを感じていた。
 そして今回、よりその作業の具体面を知るにつけその思いは余計に深まったのだった。展示物の中に、江戸期ごろに確立されてしまった身分制度のコーナーがあった。これは支配者側の思惑と都合が、殺生を禁じる(=肉食をタブー視する)仏教的思想と抱き合わせにされ、結果士農工商といった大多数の不満の目を逸らす為に、さらに下の身分として差別される側に回されてしまった人々(もちろん、芸能、刑事関係や行商などの分野の職種の人々も、そうした身分に貶められていた)の歴史をダイジェストで紹介しているものだ。ある程度知っているつもりではいたが、様々な図版や物証を目の前に出されるとそのような愚かしい歴史があった事実にやはりショックを禁じ得ない。
 今、俺が書いている事がデリケートな問題であり、ために書き様によっては誤解を招く恐れがあることも充分に理解している。それでも書かずにはいられないのは、俺は全ての差別や偏見の根本にあるものにぶち当たり、その根絶という理想があるからだ。
 それは言うまでもないかも知れないが、「無知」である。知ろうとしない奴、気付こうともしない奴、そして耳をふさぐ奴。こうした奴らに世の中は歪められていると断言できる。
 この根絶の唯一の対症法は、自ら何事も飽くことなく知ろうとする姿勢を身に付けること、加えて、それに気付かせる教育が必要だが、そんなに世の中、みんな平等に利口じゃない。頭の善し悪しは個人差があるし、今は気づかせないための教育が浸透している上、気づかないことがいいこと、みたいな風潮が支配しているから、俺の理想の実現はなかなか難しいだろう。そこで人間が出来る唯一の人間らしい抵抗として俺が拘るのが「笑い」だ。どうにもならないモノなら、目一杯黒い粉をまぶした笑いで笑いのめし、笑い飛ばしてやれ。そう思う。それは昔から、人間は権力に抵抗する手段として用いてきた。だから笑いはロックだし、ロックは笑えるものだと俺は思っている。それを突き詰めるから、ロックはカッコいいのさ。
 ま、それはおいといても、展示物の中には無知な愚か者からの差別文書など展示してあり、本当に情けなくなる。よりによって、どいつもこいつもテメエの口に入るものの世話を司っている業種を差別するなんて論外だし、そういう奴は餓死すればいいんではないだろうか。ベジタリアンなんてものは、宗教的な信条においてなら分かるが、先進国においてそれを実施している人間の信条なんて、偽善以外の何ものでもない。
 それをあまねく見て、感謝しつつ(飽食ではなく)全てを食うのがこの世を理解するための愛ってヤツだ。
 さらに俺は誤解を恐れず敢えて言うなら、差別する人間だ。でもそれは国や、職種や、階層や、性別や、人種、年齢、身体的個人差じゃない。自ら学ぼうとしない人間全てを差別する。軽蔑する。俺が直に触れた、その判断で。明日着ていく服や、昨日見たテレビしか話題がないヤツは、もう自然淘汰された方がいいんじゃないか?と、このことに触れるついでに書いておく。加えて、俺はいわれのない差別には全面反対だが、同時に表現の自由を侵害する言葉狩りにも反対している。これはいわれはある程度あるが、受け止め方次第だからな。それに表現上の効果を狙って譲れないところもあるし、そもそもこれも、あるものを無きがごとく見せようとすることの一つに他ならない。
 それから品川遊郭跡を探し、特定は出来なかったが、近辺にある「その男、凶暴につき」のシャブ中男との追いかけっこのシーンで有名なロケ地を巡りつつ、鈴ケ森刑場跡へ。この流れにもちろん俺は差別的な意図はない。やはり生と死の考察を深めるためには必要不可欠な場所だ。石碑に刻まれているひげ題目の魔術的なビジュアル・ショックに、やはり厳粛な気持ちになる。説明を見ると、町人系の江戸の有名な罪人は皆ここで処刑されている。江戸時代の差別の構造は別としても、こうした公開処刑の場で、犯罪の抑止力としてだけでなく、リアルに死を学び、被害者の報復としての刑罰、という刑罰の本質的な意味合いが遵守されていた社会であったことに関して、この時代の功と罪、両方を見る想いがする。思いを馳せることが出来ただけでも意味があった。
 その足で、いつもの東京の闇を探るツアーの同行人、CFディレクターのO氏と共に品川水族館の近辺を経て、肉を作る過程をある程度知ったのだから(加えて、忘年会の意味合いもあり、)マッコリと肉を感謝しながら食うために、徒歩で川崎のコリアタウンへ...行こうとしたが迷い、結局電車の世話になる。んですぐ着くかと思ったら...また迷い、たどり着いた、焼肉ではない「韓国料理」の数々に、奥深い味に、感動する。韓国料理=焼肉、というのも偏見だろ。プルコギ、チヂミ、ビビンバ、どれも絶品であった。
 その後、ソ−プ街の取材をするために、堀之内へ。俺は好きかも知れない人間が梨のつぶてになり、また別のそうした人間が俺にとって俺自身がそう思っていないことを実感し、投げやりになっていた。
 だから取材だけのつもりでも、およそ10ヶ月振りに、写真にダマされ衝動的に行ってしまったよ。ルックス的にはダマされても、人間的なふれあいが、好きかも知れない人間がいたために禁欲していた(失礼だからな)けど、結局それ以上のものは何もなく、(別に肉欲だけを求めていたわけじゃないし、俺がこういうところに行くとしても求めているものはそれじゃない。その場限りのウソでも、求めるものは体温だ。密着だ。快感じゃない。去勢を願っている人間にそんなもの求めるべくもないだろう?)過ぎていった無駄な時間の埋め合わせをすべく、味わった時間は、ウソでも、風俗的には淡泊でも、さらに事務的であっても、お相手をしてくれた方には素直に感謝したいし、俺などまだいい方であるはずの、この世界のカネはあっても心貧しき者どもにとって、必要な、聖なる職業であることに尊敬を募らせる。だが俺自身の暗黒は否応なく深まるのも否定できない事実だ。その男、凶暴につき [DVD]