忠臣蔵の季節に思うこと。

 結局正義が何一つなされず、こうした擬態の生を強いられている限り、いくら見聞を広め(深め)ようと、その主観の出発点がその妄念と鬼哭に占められているから、そのフィルターを通さないと何も判定を下せなくなっているし、美しいものや素晴らしいものなどあっても、全てそのフィルターに汚されてしまう。濾過はしない、汚しのフィルター。それが装着されてしまったということは、精神的に片輪になってしまったことを意味する。バカやキチガイならどんなに楽か。それは意志の力を失わせる。自我が足掻いてもどうにもならない。これは自分の心の喪失であり、感覚の喪失だ。この身は自由でも、精神は牢獄なのだ。人間性は抑圧されている。
 だから、拘禁症状がそろそろ出始めている。傷は全く治る気配を見せないし、どうやらそのうちに何年も経ってしまっているようだ。身体の一部を失った人間が、それを奪い去った出来事になど決して思いを馳せるものか。馳せるのはその失われた器官についてにのみだろう。その代用を務める事ができるものがある事を俺は知っている。きっとどいつにだって解り切っているはずだ。
 そう、それはあくまでも正義が実行されること。それだけが安らぎとこの歪みに調和をもたらす唯一の方法。何年経って、何もなかったように不実の両親が思わせようとて、そんなこと消えるわけないだろう?この世界に生まれ落ちてきてから、とうとう一度も見ることができなかった、正義の勝利って奴さ。それが得られれば、眼前で実行されさえすれば、この先ずっと孤独でも耐えられるだろうし、擬態の生でも何とか生きて行けるだろうからな。

 そして我が弟や妹のように見守ってきた、同輩たちに再会し、見守ってきたいくつかの想いが消えていることを知った。結婚祝福しながら、離婚していたりして。それはしょうがないし、全然そんなのオッケーでしょ。建設的な別れだとは言っているけど。あまり俺はそういうの信用していない。泥沼にならずして何の別れか。ポランスキーも言っているように、全てのカップルは不幸なのだ。単純に別れるか、死に別れるかしかない。憎悪がないというのは偽善だ。ないのなら、元々愛自体がなかったということ。
 だから、俺にあらん限りの犯罪的な手口で、犯罪行為をしてきた復讐すべきキチガイにも、そうした不幸が雨霰のごとく今後もあらん事を願う。破滅がないのであれば、そうあらん事を。新聞やネットの殺人事件の欄は、俺への癒しへの希いへの可能性を秘めた窓口だ。俺にとっての聖堂なんだ。誰かが殺されれば、それがどこの誰々かが気になる。
 願うなら、女ではなくキチガイであることを。留置場にも度々ぶち込まれているという、汚れた人間の、汚れたゴミのような末路だ。そのキチガイにのみ、あらん限りの不幸と破滅を願う。女を非難する気はない。血の因縁か、生来狂っていたのは間違いないのだから。俺が見誤っていただけのことだ。生来淫乱な女故、寝取ったとは言わない。その前から、それを孤独からの唯一の逃げ道として、何人もの男に股ぐらを開いてきているのを俺は知っているから。問題は俺に「女をカネ(40万)で買い取れ」と、「そうしなければ殺す」と執拗な脅迫を繰り返してきていたことであり、それは全部記録してある。所詮女などモノとしてしか扱っていない奴の言いぐさだ。
 でもその罪は断罪されない。それは俺の温情などではなく、面倒事を恐れる、俺の血縁とも呼ぶのも憚られる、正義を失した人間ども(sheep)に護られてのことだ。正義はいつまで経っても実現しない。義理と人情を秤に掛けりゃ、義理が重たいのがこの世界であるべきだから。それを忘れて、心の教育なんてクソみたいな言葉がはびこる世の中だから、こういうことになる。心の傷?PTSD?ふざけんな!だったら俺たちの先人が経験した戦争なんてどうなるの?クソみたいな心のケアは行われたか?行われていないだろう。そんなのニュースで言うのは止めろ。傷の蓄積が、生の蓄積なのだ。俺に心のケアが行われたとて、別に何も変わらねぇだろうよ。

 進むもならず、退くもならず、擬態を擬態のまま、生きざるを得ない現実がここにある。