どんづまり=デッドエンド。

 いよいよ、最近、誰にも何も、語るべき言葉を持たない、それは俺の人生が完全に行き詰まった、ってこと。多分どんづまり、ってやつさ。.・・・なんて思考が不意によぎる。いつも認めないようにしているが、この思考、コイツは常にここにいる。いつも無視しているが、意識しちまう時もあるもんさ。

 暖冬、とか言っていたくせに、結局時期になると充分に寒くなりやがるし、ただの冬じゃねぇか。むしろいつもより寒いぜ。この俺も老い、枯れかけ、尽きようとしているからそう感じるのかも知れないが。そんなこの思考の断絶は、東京らしくないこの極寒もあるかも知れない。

 冷え込みは別として、風は不快じゃない。冷たくても。もっと吹けばいい。ここで吹く風など、たかが知れている。ここの風は全てを吹き飛ばす暴力を持たないし、いろいろなものを運んでくる。それに、風自身はどこにも行ける。流れの停止は澱みや腐敗を生む。万物にそれが通じるなら、風こそが恵みそのものだ。

 それに風が持つこの冷たさは、この世の冷たさそのもの。俺の冷血そのもの。それを肌で感じるってことは、俺がそれに同化するってことだ。不快じゃなく、いつか死ぬとき、大きな死の一部に自分も取り込まれていくような、恐怖と言うより一体感、荘厳さ、そんなものも今際の際には感じるのだろうか・・・なんて想像しながら。

 ただ、俺の育った渋谷を歩くと、己の思考と周囲の毒気で、たまにマジで膝をつきそうになるもんだから、自分がギリギリだって事がよく分かり、別にそんなもんは嬉しい発見でも何でもねぇし、エルロイの主人公たちのように、どいつもこいつもギリギリだって事が分かるだけだ。エルロイの世界をリアルに実感することは悪くないけどな。しかーし!俺は隠棲を余儀なくされており、実存的に生きていない。その意味では、暴力まみれ、ドラッグまみれ、トラウマに脅かされ、それでも何とか立って何かをやり遂げようとする、デカやヤクザとしてしか生きられない奴ら、つまりエルロイ世界の住人より、何かをやり遂げようとすることも禁じられているような俺では、彼らより遙かにクソだってことは断言できる。
 やはり近いうちに、「ホワイト・ジャズ」は再読せねばなるまい。

 飲んだくれて血ゲロを吐き、そこで書き殴った散文がある。そのリアルを高純度でここに定着させておきたいので、載せておく。クソにも言うことは出来る。書くことは出来る。その限りではクソでない気もするからなのかな。

愛よ、愛よ、
そんなものがあるなら、
愛よ、愛よ、
もしおまえがいるなら、
早く来て、その奇跡を見せておくれ、
奇跡よ、奇跡よ、
おまえの顔が一つでないなら、
この力尽きる前にもう一つの顔を見せておくれ、
もう力尽きそうだが、未だ見られぬ為に、ただ生きているに過ぎないのだから。
生命よ、生命よ、
その秘密と意味を暴くまで永らえてくれ、それを待つ程にしか与えられぬ余禄の生なれば。

 どんづまりついでに、マイクル・レドウィッジ著「デッドエンド」読了。海兵隊くずれのチンピラが現金を強奪し、その仲間の内紛で、裏切ったIRAのメンバーを殺し、IRAから追われ、警察から追われる。チンピラ、IRAの殺し屋、そして刑事。いずれもアイリッシュの各主人公の視点でテンポよく切り替わり、それぞれのアイリッシュ、というバックボーンに基づく懊悩が暴かれていく。コンパクトなエルロイみたい。っていうか、ザックリと、描かれる時間は短く。短いのでその分暗黒度は低めだが、思い入れさえあれば、ノワールってこんな投げやりでいいんだよ(誉め言葉)。「フロリダ殺人紀行」を書いたクソよ、見習え!

 膝をついて、力尽きそうになってしまう毎度のアフォリズムを重ねて、初めて行った松濤美術館では、「幻想のコレクション・芝川照吉」がやっており、美術館自体の建築の美しさと、近代美術を牽引したアーティスト(今回の企画展は、彼らのパトロンだった実業家・芝川照吉の散逸したコレクションを、可能な限り再現しようと言うものだ)の作品の精緻さ(特に静物の油絵と、陶磁器)に、写実の意味を問われ、日常使う道具のデザインの必然に思いを巡らせる。
 油絵はアートなんで言うまでもないが、陶磁器は工芸品であるからこそ、工業製品と見分けがつきにくくなっている。俺らの世代は工業製品ばかりに囲まれ、その目が曇らされているんだ。人の手が、人の手のためにものを作り、その形を決める。そこに遊びはあっても、機能美は生まれる。売るために形を考える、工業製品とは真逆の創造的な作業だ。機能美からかけ離れた無意味なデザイン、遊びだけの空っぽさ。それを軽蔑するためにも根本に立ち戻って、その美を味わうのは意味があった。加えて、ガキの頃から行こう行こうと思っていて果たせず、初めて行ったところなので、一応クソも垂れ、マーキングしておいた事も書いておく。
 
 その足で、PARCO SPACE7でやっていることにその日気づいた、「ティム・バートンのコープス・ブライド展」に行っておく。展示している人形に関しては、実際に人形アニメで撮影したものならもっとフレキシブルであるはずなので、プロップと言うより、あくまで雰囲気だけ再現した人形、という風に受け取っておいたが、ヴィンセントとコープス・ブライドのデキの良さには感心。他のキャラも所々パーツが欠けていたりなんかして、何らかの形で撮影に関わっていたことを感じさせてくれる。この悲しく美しい愛の物語を、この身に取り込む為に、こんなに死の世界を楽しく描いた監督に敬意を表して、オモチャ欲しいぜ。こんな高純度の暗黒を紡げるなら、まだまだバートン、イケるんじゃない?次回作はジム・キャリーと組むと言うが、大丈夫か?
 それにしても、ジョニー・デップ目当てと思われるカップルばかりの中で、それ目当てで来ていないと思われる女の子が、展示人形のケースを手で囲み、全方向から驚きの笑顔で見ていたのが印象的だった。衣装に目を凝らしていたようなので、服飾系なのかな?俺は柳生草術・五車を修行もしていないのに体得してしまっているものだから、感情がない。表情がない。表出する術を知らない。それもこれも俺の冷血が呼んでいるのか。それはともかく、この世の驚異に直結したその感動の笑顔、それは素敵なことだ。忘れないでね。その、物言わぬ「もの」への暖かいまなざし、それが単純に嬉しかったよ。

 さらにたまたま入ったコンビニで掛かっていたのを聴き、知らなかったために「PARADE RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK」を衝動的に購入。俺は世代故、BUCK-TICKブルーハーツ絡みだと、無条件に反応してしまう。むしろブルーハーツよりはBUCK-TICKの方がその傾向が強い。音楽にうるせぇヤツ(例:四隣が戦場のこの世で、無防備に町中でのんきにダセー音楽を大音量で聴いているヤツ)なんかに言わせると、どの曲がどのバンドのパクりだ、とかツマンネェこと言うが、俺は詩が重要なので、その点言わせてもらうと、俺が注目する理由は、一貫して、絶望と、諦めと、死を歌っているから。無知な人間はビジュアル系とかで括りがちだし、そんなのは分かっていない証拠。そんなヤツは一緒に首でも括っちまいな!いわゆるメタルみたいな流れや、明朗なビート系(死語)みたいな流れとは一線を画して、彼らの出発点が、徹底してパンクだからなのもあるね。そして絶望は途方もなく深い。
 今回参加のアーティストは、遠藤ミチロウ土屋昌巳は別として、みんな影響受けているのは確実な世代だから、なんか微笑ましくてカワイイ。好きだ!って臆面もなく楽しげにやっている意味では、腐れ芸能人が良くテレビでカラオケの延長みたいな音楽ショーをやっているノリに近いとも言える。でも、もちろん、そんなものとは比べものにならないほどの、音楽的なリスペクトとクリエイティビティが存分に込められているのは言うまでもない。やっぱBUCK-TICK、続けているし、ラモーンズみたいに笑えて、かつ単純に偉大だな。男なら死すのは戦いの荒野よ!畳の上で死ねるなどとゆめゆめ思うな!墓も要らねぇだろ。ホワイト・ジャズ (文春文庫)デッドエンド (ハヤカワ文庫NV)PARADE~RESPECTIVE TRACKS OF BUCK-TICK~