休みは癒しにならない。もちろん表現ではないクソ労働も。

 渋谷のシネマライズへ、「ロード・オブ・ドッグタウン」行こうと思っていたけど、直前で「ダウン・イン・ザ・バレー」行ったよ。「〜ドッグタウン」は、スケボーカルチャー的には一足先に公開されているドキュメンタリー版の方が気になるな。確かにデヴィッド・フィンチャーがプロデュースしている作品なんで
興味はあるし、もちろん、ガス・ヴァン・サントの「エレファント」で素人から抜擢された、ジョン・ロビンソンや、「サーティーン/あの頃欲しかった愛のこと」で自伝映画化デビューしているニッキー・リードにもそれぞれ欲情したかったってのもあるけど・・・。
 ここで書いておくと、俺はホモじゃないが極度の美少年には欲情する傾向がある。もちろん、そんな美少年が目の前で俎上に載せられていたとしても、俺には何をする術も持たないが。少女ではあるが、ニッキー・リードは単純に悪の輝きを放っているのが俺には魅力的だ。それに美しさを感じる。だから現実にも、ファム・ファタールに人生を狂わされる愚かさを俺は持っているわけだが。それはおいても、要するに美しいものは美しいものとして評価したいだけだ。カマ喋りでデカいツラしてテレビに出ている奴らとは訳が違うんじゃ!
 何よりも重要なのは、美少年は美少女より賞味期限は短いだけに、俺はその旬を見逃したくない。審美眼が鋭い人間の宿命か。別に鼻にかけているわけでもないし、ただ単純に、お茶を濁すような卑屈な美より、瞬間にある本当に美しいものを見逃したくないだけさ。と一通りの美少年(美少女)への愛着(ただ、ヘテロの俺は、美少女よりハードルが高いらしく、そうそういないが。当たり前だ!)を展開しすぎてしまったようなので、話を元に戻そう。
 
 結局休みがあっても、あるだけ惨めになる。なきゃ辛いのも分かっているけどな。何よりも行くところがない。行きたいところがない。したいことがない。したい人がいない。会いたい人がいない。会えない。それは心が死んでいると言うこと。多分、これ以上ないほどに、完全に。だから、映画館の暗闇に身を任せる。紛れもない逃避なんだけど、映画館の闇は優しく、いかがわしい。ここまでどっぷり映画の魔道に踏み込んでしまっている俺には、もはや逃避と呼べるほど安易なものでは、とっくの昔になくなってしまっているし、ある種の覚悟をさせる暗闇ではあるのだけれど。それでも、やるべき事がない虚ろさよりはこの闇は確実に優しい。熟練の淫売が聖女の姿と重ねるのはそのせいだ。俺がこの闇に抱かれている限り、俺は観音様と一緒にいるんだ。
 と、まぁ、そんなことを考えながら、グレース・ケリーの再来との呼び声も高い(らしい)、やはり「サーティーン〜」で株を上げた主演のエヴァン・レイチェル・ウッドの持つ、瞬間の美に負けて、「ダウン・イン・ザ・バレー」の闇に溶け込んだわけだ。イヤこれが正解、美しすぎる。多分もうしばらくすれば単なる女性の美に貶められてしまう少女の美が確実に切り取られている。話は、結局ピュアなアウトローが心の繋がりを誰かと欲しようとすると、間違いなく変質者扱いされて命取りだよ、って、ニューシネマ的な結論なんだが、デヴィッド・モースブルース・ダーンなんかが脇を固めているので、安心してそんなファンタジーに身を浸せた。俺は衝撃的なエンディングって聞いていて、それを期待していたんだが、それに関しては大したこと無かったね。単純にエドワード・ノートンの痛さが身につまされた。
 むしろ時代錯誤のカウボーイかぶれの流れ者が、歳の離れた少女と恋に落ちる、というプロットを聞いていて、衝撃的ならノートンのカウボーイは、地球人を誤ってリサーチした宇宙人の送り込んだエージェントなんでは?なんて邪推もしていたが、ストレートなウエスタンへのオマージュだったよ。そういう意味では、現代でどうウエスタンするか?って命題に真剣に取り組んでいて好感が持てた。ラブストーリーと言うよりは、徹底してはいないけど、「マカロニ・ウエスタン/800発の銃弾」と同傾向の作品なのかも知れない。

 その夜、無性に踊りたくなり、人恋しくて、近所のクラブへ行く。踊りは堪能したけどね、感じたのは日本のクラブシーンなんてどこまで行っても海外の猿真似でしかないんだよな。オルガナイザーがいくら燃えたって、客は所詮日本人だからな。欲情してないんだよ。音楽だけが好きなやつ?音楽オタクが勝手に独り入り込んでる。もしくは、友達同士で行って、友達同士で盛り上がって終わる極めてクローズドなもの。こいつら、一方では気の弱そうな顔して音楽に入り込んでいたり、クールな扇動者気取っていてもだらしない体つき、顔つき、していたりしやがって、暴力の何たるかもまるで知らないで育ってきているみたいだ。情けない。俺がリアルにガキの頃、たまに行っていたインクスティックなんて暴力とドラッグの巣窟だったよ。客観的にそれが笑えたから行っていたのに。健全に、不健全な環境を作ろうとしても無駄だ。
 これってよ、俺がどこの職場でも感じている不快感の根本を象徴しているようだ。どいつもこいつも精子の少なそうな顔だけは一人前にしやがって、下世話な欲望を隠していやがる。もちろん、欲望がないなんて綺麗事言う奴ばかりだ。そんな奴は百パーセント生きる価値がない。自然淘汰の対象だ。今は平和すぎて、そんな奴が多すぎる。でもそんなの見せかけだぜ。本質は弱肉強食なんだ。自分らの権益を守るために、それを見えにくくする様に為政者は心を砕いているが、だんだん露わになってきているけどな、そんなツラしていられるのも今のうちだ。早く淘汰されて死ね。

 次の日、起きて「SAYURI」に行くのが国辱映画マニアとしての義務だと思い、渋谷へ。
 いつから渋谷はこんなに見るべきものがない街になってしまったのだろう?俺の心が死んでいるせいかもしれないが。献血の呼びかけを虚しく聞き流しながら、献血したい気持ちを抑えて思索する。俺はアルコールに汚れているからな。
 
 俺に信仰というものがあるとしたら、それは己の血が何か(悪=ファム・ファタール=俺を壊した女との出会いであることは分かっている)のために汚れてしまっているのではないか?ということ。根拠の無いことをズルズルと信じてしまう、という点では、それも信仰だろ?そして汚れた血は、浄化しなければならない。その浄化が、精神も浄化するなら、それが「救い」。ほら、そんなものを渇仰する時点で、十分信仰だろ?ただ、俺はそこに崇めるべき対象を持たないだけだ。なんてな。

 肝心の映画はオヤジがマコ(岩松)だし、パトロンがケリー・ヒロユキ・タガワ、日本軍の大将がチョウ・ユンファの盟友、ケネス・ツァンだったりと、アクション系ばっかりだわ。身体売らないとか言って売ってるし、論理的な破綻を来している。前半は日本の子役のギャーギャー言う声が不愉快で、本当に苦痛だった。目の前にそんなガキがいたら、そいつのそんな不快な声が出なくなるまで殴っているところだ。そのくせハリウッド的にはタブーである児童虐待描写に特筆すべきものがあるかといえば、それも見あたらない。
 まぁ、殆ど日本ロケしないでこんなの作ったんだからその点は評価もする。このこだわりをハリウッドが見せれば、マーティン・スコセッシが映画化権だけ買って手つかずになっている、「東京アンダーワールド」も、慎太郎が大風呂敷広げてはいるが、海外に比べりゃ全く非協力的なこの国にあっても、結構リアルに実現するかも知れない。
 でも本作に関してはこんなゲイシャの描き方していると、売女≦芸者=芸をする売女としか受け取られないぞ。当たらずとも遠からずかも知れないがな。ゲイシャなんてもので白いのに欲情させたいなら、「サムライ・ドリームス」(デヴィッド・クローネンバーグ監督『ビデオドローム』劇中のポルノ)の方が全然良くない?
 それは別にしても、今は失われた、物欲に支配されるだけではない女の美への執着という美徳は確実に表現されているのはいい。今の女は物欲だけのモンスター(=餓鬼道の住人)だからな。しかし映画としては感情表現が浅いのが致命的だ。それでもその辺のタフネスを桃井かおりが一手に引き受けているのは頼もしい。彼女は途中で力つきた松田優作の遺志を見事に継いでいるのだ。優作さん、あなたの死は単に伝説になるだけではない!今も生きている・・・。Dogtown & Z-Boys [DVD] [Import]エレファント デラックス版 [DVD]サーティーン あの頃欲しかった愛のこと [DVD]ビデオ・ドローム [DVD]東京アンダーワールド (角川文庫)