ヒストリー・オブ・バイオレンス。

 ワーナー・ブラザーズさんのご招待で、ジェット・リーの新作「SPIRIT」試写へ。長いけど、史実ではないにしろ歴史的な背景を巧みに織り込み、見応えのあるアクション大作。言ってみりゃジェットの集大成ってところだ。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」シリーズの「無影脚」みたいなマンガ技も極力抑え、リアル志向のカンフー映画に仕上がっている。しかも話は「ドラゴン怒りの鉄拳」エピソード1って感じなんだよな。その点でもカンフー映画的には集大成と言えるだろう。あ、ジェット的にはそのジェット自身のリメイク的な位置づけの「フィスト・オブ・レジェンド」エピソード1ってところかも知れない。歴史に込められた暴力、正しくヒストリー・オブ・バイオレンスとしては言うことはない。
 だけど中村獅童はスタントダブル使いすぎ。本気でやったら獅童公開処刑になるだけなんで、それは控えたんだろうけど、スター映画の宿命で仕方ないと言えば仕方ないが、真田広之のようなキチンと動ける人を配して欲しかったと思うのの事実だ。それでも、あそこまでやってくれたら、「マッハ!!!!!」のスタントに香港映画界の危機を感じたというサモ・ハンの新作「SPL」は何が何でも観たくなるね。

 そしてとうとう一観客として、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」へ。原作読んでみたけど、これをこのままやっていたら、バイオレンス過ぎて成人指定は免れないだろう。絵のせいで大人しく見えるが、期待の大きさに比べたら、それでも映画はかなりソフトかも知れない。
 なぜなら、暴力を批判する立場において(というかそれを建前に)、クローネンバーグは暴力表現の極北を見せてくれると思っていたからだ。それは前作「スパイダー」同様、単に予算がなかっただけかも知れないが、不発に終わっている。超常現象抜きで、非ホラーのテーマを扱っていても、これまでのクローネンバーグはどれも、とんでもなく狂っているものばかり撮ってきた(例「戦慄の絆」「Mバタフライ」「クラッシュ」等)だけに、今回の物語の部分でそれを外してしまっては、ストーリーも凡庸に思えてしまった。正義のもたらす暴力も、悪のもたらす暴力も、結果は同じ、という点を強調するなら、所詮は現実の暴力と映画の暴力は別物であるので、原作に遜色ないほどに、もっと暴力描写は盛り込んでおくべきだった。というのと裏腹に、映画の部分でそれを単純に観たかった俺でもある。なぜなら、クローネンバーグという偉大なるキチガイの狂った脳内のヴィジョンが観たいために、彼の作品に魅了されて来た、というのがあるから。
 ただ、「ロード・オブ・ザ・リング」のお陰でスターダムに上がってしまったヴィゴ・モーテンセンを、恐らく、その酷くチンピラ臭いルックスと不良性感度で買ったショーン・ペンが、「インディアン・ランナー」で主役に抜擢したように、本来の持ち味、拭えない暴力性をモーテンセンに復活させたことは評価されるべきだろう(もちろん、石橋凌と共演した「ヤクザVSマフィア」もその系統に入るね)。そして、エド・ハリスはいつも通り最高。
 さらには、現実的に考えさせられるべきところが多々あったのも、本作がクローネンバーグ映画らしくないと思った所以かも知れない。要は社会性が強いんだな。
 主人公は捨てたはずの過去と向き合い、決着を迫られるわけだが、結局誰も過去からは逃げられないし、逃げている限り、いつかはそれと向き合わなければならず、法治国家なんて欺瞞に言いくるめられてみて、自分を納得させていたとしても、捨てた過去が法なんてものを超越した悪意に因っているものならば、こちらもそんなものは捨ててかからねば確実に殺されるわけだ。
 少なくとも、そういう悪意と対峙しなければならなくなった時、生き延びる為には最低限その覚悟は必要で、切り替えがいつでもできる状態でなければならないだろう。その想いを個人的には新たにした。
 安全な世の中、安全なシステムを強調するくせに、体制も世の中も実は安全ではない。気づいていない奴がいたら、そりゃコントロールされている(バカ、とも言う)だけだ。体制は腐敗しているものであり、盲信は控えなければいけない。特に警察などは、起きてしまったことの後始末しかできないのだから。犯人が野放しになり、対処に渋っていた警察の不手際が露呈した「桶川ストーカー殺人事件」などでそれは証明済みだ。現に野放しになっている、更生不可能なケダモノは、この世に掃いて捨てるほどいる。俺も野放しになっているケダモノを知っているし、被害者だ。そしてそいつは現に何の裁きも受けていない(はずだ)。ジャングルと一緒なんだよ。
 小学生の時分、行きつけの床屋に揃えてあったせいで、俺の人生を決定的に変えてしまった、雁屋哲・作/池上遼一・画「男組」(アイドルではない!)にもこんな一節がある。