「映画の日」前日に俺は何をやっているんだ!?

 先日は宣伝会社のP2さんのご招待で、「クライング・フィスト」試写へ。何年か前に新宿コマ劇広場で「殴られ屋」をやっていた元ボクサーの姿に着想を得て作られた映画らしい。というか何でそれを日本映画でやらないんだ?とは当然思うが、今、ある意味一番アジア映画の完成度としては信用に足るブランドを確立した、韓国映画なのだから仕方がない。日本じゃそういう企画を通そうという豪気なプロデューサーもいないだろうし、何より映画に金を出す奴がいないだろうから、これはこれで正解だ。きっと「デビルマン」も凄い傑作になっていただろうよ。
 それはさておき、俺はこの作品、正直凄く期待していた。それはこの作品が先述の殴られ屋と、韓国に実在する少年院上がりのチャンピオン、その人生の辛酸をねめ尽くす姿を極めて公平に捉え、最後に試合という形でクロスさせている、という実験的な手法の映画であることを事前に知っていたからだ。そして図らずも試写室で涙々、してしまったのだ。これは極めて純粋なボクシング映画だ。
 結局、マジモンの格闘技ってのは、その背景を徹底的にこの作品のように知ってしまえば、観客として高見の見物を気取る限りは、その結果や、勝敗の行方なんてどうでも良くなってしまうんじゃないだろうか。この映画ほどドン底同士でもなければ、ドラマチックではないかも知れない。でも誰にも負けられない理由があるし、勝たなければならない理由がある。だから俺はスポーツの中で格闘技は別格で注目しているし、特にボクシングは感動する。人間の根元的な暴力(闘争本能)の、最も合法的な発露をそこに見るし。
 集団の競技はこうはいかない。球技とか。人が多すぎんだよ。だから俺には必死さが伝わらないし、悲壮感もブレる。勝手にやってくれ、って感じだ。かといってプロレスは、当事者がそれを過剰に演出しようとしているきらいもあるので、俺はその意を汲んで、純粋に娯楽として見ようとしているが。
 それとは別に、俺が涙しながら強く感じたのは、俺は単なる娯楽として映画を見続けているんじゃない、ということの再認識だった。感動したいわけじゃない。それがポジティブであれ、そこから何かを感じ取りたいんだ。俺の別ラインのライフワークである、単純な激安暴力映画(アクション)は、そりゃもちろん楽しんじゃいるが、楽して椅子に座っていることで、何か教えを請いたいのかも知れない。それを現実に反映させない限り、現実逃避といわれてしまえばそれまでだがな。

 あと最近は、エルモア・レナード著「追われる男」読了。いつも思うのだが、レナードは話の転がり方が遅い。というのは別に不満ではなくて、転がっているのか転がっていないのか判然としない、周囲を煙に巻くような、のらりくらりとした会話の応酬のうちに、いつの間にか読者は乗せられてしまう、というマジックを持っている。気がついたら、物語は何ともテンポよく、しかし猛然と転がり始めているんだ。それは毎度現れる、個性豊かで憎めない(マヌケな)悪党どもの手口にしても同じだ。以前読んだ「プロント」同様、異国を舞台にした異色作ながら、その持ち味は健在だった。そしてさらに異色に思えたのは、軽妙と取っていいのかどうかも躊躇われる、その唐突な幕切れ。だが、それすらも新鮮に受け止められるくらい、大人の感じる人生の滋味、って奴を感じ、且つ想像させてくれたね。なぜ想像、と強調するのかといえば、俺はまだそんな境地になんて引っ掛かりもしない、ただのケツの青いガキだから。
 そして、「映画の日」前日に俺は何をやっているんだ!?と感じていることを今回のテーマにしておこう。殴られ屋デビルマン(1) (講談社漫画文庫)追われる男 (文春文庫)プロント (角川文庫)