タイ、その前の呪いの正体。

 渡タイ前の予習に、馳星周「マンゴー・レイン」読了。タイが舞台で未読の物語はこれ位しか思い浮かばなかった。しかも俺は馳星周作品の中で実は一番これを読みたくなかったのだ。
 それは、背表紙にある粗筋の安直さから。うまい話、謎の女、張り巡らされた罠。そして秘宝。これってただの冒険小説的紹介じゃないか。そうでなくとも、このあっさりした惹句からは、そう受けとられてもおかしくないぞ。俺もそう思ったし、そんな小市民の息抜きにしかならない物語など全く必要としてねぇんだ!と高をくくっていた。馳星周もご当地ミステリーみたいなものを書くようになってしまったのか…という危惧もあった。だがこれも嬉しいことに早計に過ぎた。ちゃんと、痛いほどに暗黒小説していたんだ。
 「俺をなめるなよ。」という作者の声が聞こえた気がした。だとしたら、この粗筋の書き方は、作品に対して相当な損をさせているよな。そしてここまで絶望が深いとは。きっと、この粗筋のように外面的に判断されてしまう物語とは別に、馳星周は全く別のテーマを盛り込みたかったに違いない。
 それは詳細を書くとネタバレにもなってしまうのでぼかすことにするが、非常に広義で言ってしまうと、“死”と“呪い”についての考察だ。これがヤバい。俺の精神にダイレクトに来るフレーズが散見され、しばらく酒も断っていた感情には、いや〜、もの凄い絶望感だ。確かに、前述したような冒険小説的というか、謎解きのエッセンスが所々にあり、そこで作り物感を感じるのは、ある意味救いになるけど、物語などどうでもいい。
 ノワールとは、悪を描くのではなく、読み手の脳内に巣喰っている暗黒を暴き、突きつけるものなんだ。もちろんそれに自覚的ではないバカには分からないだろうが。その意味を日本語に当てはめた“暗黒小説”の字面通り、全てのノワールはそうあるべきだし、また、そうでなければならない。じゃなけりゃ、ただのピカレスクになっちまう。話の整合性だって、本当は関係ないんだよ。トンプスンがいい例だろ?
 でもさすがに打ちのめされて疲れた。別にタイのイメージが悪くなる訳でも何でもないが、このテンションの下がり様は、タイに行く前に読まなければ良かった位だ。そして問題は、“呪い”についての考察だ。といっても別にありもしないオカルティックなものじゃない。言い換えれば、“怨念”や“執念”の様な、人間の強い感情が、他者の精神に及ぼす作用、といったところだろうか。
 さらに酷いことに、俺はこうしたものを知っている。罹っている、と言ってもいい。別に疫病のように感染するものじゃないが、それは俺の中に巣喰い、根づき、やがて俺自身と癒着してしまったようだ。そのせめてもの抵抗に、俺は目一杯の“NO”を込めて叫ぶ。「うるせえ!」と。独りでいる時は思い切り。周囲に辛うじて人間と呼べるもののいる時は心の中で。夢の中だってそれは変わらない。きっと盛大な寝言を吐いているだろう。なぜなら、ここ最近、とみに、俺の頭の中でひとつの名前が明滅するからだ。
 この本でも描かれていた魔女。俺から全てを奪い、とどめに悪質な呪いをかけた、俺の魔女の名前が。
 俺は愛するものを持たない。誰も愛していないと断言できる。別に愛したくないわけじゃない。ただ、愛を抱く対象に出あうことすらも叶わぬ、絶望的、絶対的孤独の中にいるだけだ。べつにそれを乞食のように求める気もないが、そういう状態の時、心は、最後に感じた経験をよすがとしたがるらしい。それが嘘にまみれていても、唯一真実に近い経験がそこにしかないからかも知れない。
 俺の場合は、魔女とすらも呼べないただのキチガイだが、俺が仕事から帰ってくると、睡眠薬と酒を大量にあおった上、オマンコとケツの穴にバイブをブチ込み、スイッチオンで眠りこけていやがる(実話)みたいに、狂い果てて生活を徹底的に破壊したあげく、その女は俺を裏切った。さらに裏切ったくせに、こんなメールを送って来やがった。以下は本物のキチガイの記した貴重な資料だ。呉秀三先生なら喜ぶに違いない。

「あれから毎日をどう過ごしていますか?
わたしは一日も光と過ごした日を忘れた日はないです。
またいつかあの時のように出会えるかもしれないと。
無理なことと分かっていても会いたい気持ちはずっと消えない。
そして無理なお願いをします。
ずっとひとりでいてください。   くみ。」

 どうだ?裏切っているくせにこいつは何を言っているんだ?というクエスチョンしか浮かばない。そして、我がバイブル、「葉隠」の一節、

「理は角成るもの、極まりて動くことなし。婦(おんな)はまろき物也。善悪邪正を嫌はず、所を定めずころぶ者也と云ふべし。」

 という言葉が脳裏に浮かぶ。要するに、「女には自分の中に絶対の正義がない!」と断言している女への偏見で書かれている文章である。だが、俺はそれを偏見とユルく捉えても、この言葉に外れた「絶対の正義」をいまだに女の中に見たことがない。たまたまそうなだけだと思いたいが、山本常朝はその実、本質をついている気もする。それは俺の中に、「穢れ」として映るな。べつに身近じゃなくても構わないが、俺のこの一節への「偏見」である、と言う見方を裏付けてくれる女はいるのか。
 さらに、否定したがっているくせに、積極的に呪縛されたがっているのかよく分からないが、俺の人生は現実に、この呪いの言葉を敷衍する生しか送れなくなっている。無駄な労力がひたすらウザいが、この呪縛を破ることこそが、俺の人生における勝利だ。「エクソシスト」のカラス神父のようになっても。マンゴー・レイン (角川文庫)エクソシスト ディレクターズカット版 [DVD]