虚無の穴に放り込んだ内訳。

 浅草橋ルーサイト・ギャラリーへ、山本タカト・大展覧会「月逍遊戯〜アンドロギュノスの棺〜」へ行った。最近の山本タカトの作品はそれほどチェックしていなかったが、ふとしたきっかけで個展やっていることを知り、見てみる。昔の耽美とえげつなさのバランスが、明らかに耽美の方向へ行ってしまっているのが分かり残念。個人的には緊縛された美少年が勃起しているような、桃太郎の世界で限りない性倒錯が展開されているなどの、耽美ではない、反逆としてのエロの比重が重いのが好みなだけに、見るべき作品が天草四郎や、僅かにあった古典的な緊縛画しかなかったのは、これから追いかけるのもちょっと考えてしまう。とはいえ、エロが革命になるなんていうのは飛んだお笑い種であるのは言うまでもない。エロはカッコイイものじゃない。断じておしゃれでもない。笑えるものだ。そして欲情できればいい。それを結びつけようというヤツは単に己の変態性を正当化したいだけだ。エロはエロなんだよ、バカ野郎。笑いがどこまでも笑いであるのと同じだ。おっと、脱線したが、それとは別に、客層が耽美に憧れている(でも全身全霊で耽溺する勇気はない、死ぬ覚悟もない)、勘違いバカ女が多いのも気になった。それはアーティストのせいではないが、美麗さだけではなく、もっと生々しさを追求して欲しいと思ったのも事実。

 ハビエル・ガラルダ著「アガペーの愛・エロスの愛―愛の実践を考える」読了。結局、愛は愛の向かう方向へ行くしかない。本来は、セックスなどその一瞬の盛り立て役にしか過ぎない。人間があくまでも動物の世界と自分たちを隔てて考えようというなら、心を重視すべきだし、その限りではセックスなど重視すべきものではなく、むしろ進化の鍵なのに。それが出来ないなら、中途半端な生殖など止めて、ただ快楽のみを徹底的に追究すべきだ。だいぶ前にやっていた、NHKジェンダーについての討論番組で、「子供も仕事もどっちも取れる世の中であるべきじゃないんですか?」みたいな、ふざけたことを抜かすデブ女がいたが、それを観てこんなクソみたいな意見が全国放送されることに、はらわたが煮えくりかえったことを思い出した。そんなのどっちも取れるわけねぇだろ。それが甘えを生むし、そもそも世の中は人間なんかに甘くできているわけじゃないのだ。その認識の甘さが斯様なふざけた戯言を生み出す。幻想を捨てろ。愛に生きるか、愛を捨てて生きるか、腹を決めろ。愛に生きたくても獣にならざるを得ない人間もいるんだ。という思索には大いに貢献した。そこんところの想像力が足りないヤツには、この本の優しさは難しいな。

 そして飛行機の中で、小池喜明「葉隠の叡智」読了。最大の眼目は、表層的な隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」へのオマージュではなく、「葉隠」の口述者たる山本常朝が、真の武闘派武士であるなら、いちいちこんな「死狂い」の思想を強調する必要はないだろう、ということ。本書でも例に出している宮本武蔵がいい例だ。強い人間はいちいち死の覚悟を固めることはない。しかしそこまで「死」を強調していながら、なんの悲壮感もなく、むしろ清々しささえ感じるのは、この思想がニヒリズムを先取って実践的に生まれた思想だからだろう。最後にニーチェとリンクするところで大団円を迎える。これが既に先取られていたのは、日本に仏教が入ってきていたことは無視できないと思う。俺は仏教には別に精通しているわけではないが、その無常観は共感するところがある。生きること、生かすことを目的に。それでも武士道はそこに反発し、死ぬことで生きようとする。死にながら生きようとする。その無謀さが、ロックと俺が思う所以だし、未知の文化を持つ土地にたどり着く前に、己の足場を自覚する意味で、こうした本に出会えたことは収穫だったと思う。
ファルマコンの蠱惑 (パン・エキゾチカ)アガペーの愛・エロスの愛―愛の実践を考える (講談社現代新書)「葉隠」の叡智―誤一度もなき者は危く候 (講談社現代新書)死ぬことと見つけたり(上) (新潮文庫)死ぬことと見つけたり(下) (新潮文庫)