映画修羅八荒の果て。〜前編〜

 暴力が横溢し過ぎて、その組み合わせが良過ぎて、今月も行ったよ。

 一本目、試写状頂いていたが行けなかった、「父親たちの星条旗」へ。この作品は硫黄島の戦闘そのものを描くものではなく、その戦闘に参加した人間の数奇な運命を描いたものなので、戦闘シーンは決して多くはないと思うし、いわゆる“戦争映画”でもないと思う。それでも要所要所に挟まれる戦闘シーン、凄まじい残虐描写に大満足。その点においては、少なくとも「プライベート・ライアン」は超えたな。しかも「〜ライアン」では描かれなかった、艦砲射撃や、艦載機の編隊飛行などを(多分)意図的に織り込んでいて、これがいちいちシビれる!「〜ライアン」が見せなかったものを見せようという意気込みが半端じゃないのだ。いや〜、この分だと「硫黄島からの手紙」も期待できるね。なぜなら、日本編はオリジナル脚本だ。原作モノという制約から離れて、全編戦闘シーンにしようと思えば出来るからな。今回は本に忠実で緻密な、職人的手腕が際立っているが、次回こそが、イーストウッドの真の力量が問われるだけに、見逃す訳には行かねぇ。

 二本目は「ブラック・ダリア」へ。エルロイ原作では一番作者の思い入れが強そうなのに、よく映画化できたと思うが、俺はもともと監督候補に上がっていた、リンチやフィンチャーによる作品を期待していただけに、結論から言うとこのデ・パルマ監督作は、大いに不満がある。
 エルロイという作家は、「自分は作家にならなかったら間違いなく性犯罪者になっていただろう」と公言して憚らない、ド変態である。その自らの変態性を開花させるきっかけになった事件をモデルにしたのがこの原作なのだ。
 もちろんエルロイがこの事件に異常な執着を見せるのには、やはりブラック・ダリア事件同様未解決となった、彼の母親が性的暴行の上殺された事件があることは言うまでもない。本心では、若くして殺され、最早永遠に歳を取らなくなった母に、エディプス・コンプレックス的な欲情を抱いていたらしい。だとしても、エルロイにとって母親の事件は、直接にトラウマであり過ぎ、ストレートに欲情するにはセンシティブな領域であり過ぎた。だから客観的に欲情できる材料を少年エルロイは必要としていたし、そんなところに降って沸いたこの事件は、彼にとってお誂え向きのズリネタとなった。そして成長して作家となったエルロイは、己の性的ファンタジーと決着をつける為に小説「ブラック・ダリア」を書き上げたのだと俺は捉えている。
 この辺の事情は、「わが母なる暗黒」に、本人が詳述しているが、要するに、そのビジュアライズされたものは、とんでもなくビザールで暴力的なものでなければならなかったのだ。現実に材を取ってはいても、その世界観は性的妄想なんだから当然だ。そこら辺を、デ・パルマはスタイリッシュにやり過ぎた。もっと粗暴で、荒々しくていいんだ。極端な話、スナッフとブルーフィルムを繋ぎ合わせた様な出来で構わないのだ。もう一つのエルロイの特徴である、哀切なセンチメンタリズムは、この際ほかの作品群に任せておこうじゃないか。「L.A.四部作」中唯一、他の作品と物語的な繋がりを(殆んど)持たないのも頷ける。繰り返すが、それだけエルロイには個人的な思い入れタップリの作品ってことだ。
 だからといってこの映画化全否定するわけではなく、随所に織り込まれた「バットマン」のジョーカーのモデルとなったクラシック映画「笑ふ男」のイメージや、ズートスーツを着たメキシコ人に警官が暴行を加えているところなど、次作「ビッグ・ノーウェア」への目配せとも取れて微笑ましい限りだ。それに実際のダリア(=エリザベス・ショート)には誰一人似ている人間が出てこないが、ヒラリー・スワンクだけはそれを超越して芯の強い美しさをまたも見せてくれた。でも、ジョシュ・ハートネットは、「シン・シティ」でも思ったが、この手の役をやるにはまだ顔が若いな。
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