正月早々、本棚が崩れてきた。

 雪崩なんてもんじゃない。四日かけて這い出して、本のことを書かないから罰が当たったと思い書いている。初夢は、まだ見ない。映画もまだ観ないようにしよう。


 ジャック・ケッチャム著、「隣の家の少女」読了。スティーヴン・キングが解説を書いている。キングの思い入れも当然だ。これは「スタンド・バイ・ミー」を代表としてキング作品に多く描かれる、50年代アメリカ少年の夏の日から始まる。恐らくはキングの心の原風景と酷似しており、やはり「スタンド〜」同様、一切の超常現象を排した、救いなき物語なのだから。少女が虐待を受ける。それだけなら“自称・児童虐待の被害者”というような、なぜその時に殺されてしまわなかったのか、虐待者の神経を疑ってしまう自己憐憫の塊たちが読む為のズリネタ・ノンフィクションが腐るほどある。それでもこの作品がそうした馬鹿が読む本と一線を画しているのは、虐待だけではない、凌辱や死といった、虐待される側の限界を超えた出来事が描かれているからだ。
 そしてもっと重要なのは、救いたいと思いながら傍観してしまう心の弱さ、閉鎖された環境や集団心理による良心の麻痺、それに伴う残虐性の加速など、人間が最も目を背けたくなる邪悪さが描かれていることだ。こう書くと、その程度大した邪悪ではないと捉える向きもあるかも知れない。
 しかし、俺の今に至るまでの研究成果では、邪悪さの源は弱さから来ている事がはっきりしている。その裏付けとしての描写には説得力があるのは当たり前だ。善人面する前に、その邪悪さという“獣”が己の中にもいることを自覚するための作品でもある。いや、獣と言っては獣に失礼だ、でも便宜上言わせて貰うと“獣”は“死”に匹敵するくらい平等に行き渡っているものだけに、それを自覚の上で制御した人間しか、善人とは呼べず、他は皆、そういうツラしてるだけってことがよく解る。少女を殺したのは、俺であり、お前らであり、おれたちみんなってことさ。「その少女から離れるんだ!」って言えたのは、松田優作(伊達邦彦)だけ。


 野村旗守・編、「沖縄ダークサイド」読了。顔が、名前が、声が消えてきたので、止めに、皆が楽園と思おうとして止まない、ただの島、そこに住むただの人間という現実を注入してみる。俺は「エターナル・サンシャイン」の様に、自らの忌まわしい記憶が消えることを恐れない。消えるなら、消せるなら、己の脳から全ての記憶を消しても構わない。こうした本を読むことで、俺がその経過に動じないことを確認する一助にしたかった。
 現実味もなく、安易に沖縄移住願望を持つ馬鹿、足場も築かずに移住してトラブルの種になっている、癒しなんぞを求めているだけの劣等種は、全員これを読んで生まれ直して来た方がいい。死に絶えてしまえばもっといい。そこまで言えるほど良書ではないにしても、知らない人間には衝撃的な内容かも知れない。ただ、ここに書かれていることは、まだ俺が欺される前だった10年近く前、同じ別冊宝島シリーズで出ていた、「熱烈!沖縄ガイド」にあった内容から容易に類推できる内容なので、突き詰めてはいないが、あの本における視点が如何に鋭かったかの証明になったと思う。あれはやはり名著である。こっちはテーマがバラバラ過ぎて、複数の執筆者がそれに輪をかけて散漫な印象を強くしている。要するに外野が騒ぐのは、地元の人間には迷惑でしかないってことさ。
 ところで、本書を読了して、俺個人が改めて感じていることは、心を使い果たしてしまい、心のない人間となった以上、手や足のない状態と同じであり、それは片輪であるというだけでなく、廃人であるということへの認識だ。そうしてこのまま、肉体だけを引きずって生きて行かなければならず、性欲だけ残った無惨な状態で、それを持て余し続けなければならないのだ。心のない、心の伴わない性欲は、ただの獣欲、いや、獣と言っては獣に失礼だ。ただの劣情でしかないんだよ。それはそれで人間らしくなっているとも言えるが、そんなものに支配されて生きているということが、正しくあることだなんて思えるかい?


 エルモア・レナード著、「スプリット・イメージ」読了。考えを抱くだけなら、別におかしくも何ともない事でも、実行に移そうとする時点で異常者と見なされる欲望がある。殺人についての欲望などそうで、特に怒りや怨恨で特定の対象にそれが向けられているのは異常ではあっても、人情として容認できる異常さだ。しかし対象を選ばず、殺人というその行為のみへの欲望は、人間に精神の自由のみが保障されている所以だろう。
 快楽殺人への欲望。それは到底容認できない異常者の欲望として認知される種類のものだ。そういう奴のリアリティにまでもレナードの洞察が行き届いていることが分かる。
 それにしても、俺がこうして快楽殺人に対して否定的ではあっても、全否定をし切れないのは、俺が快楽殺人者だから・・・んな訳では断じてないんだけど、要するにこの事を簡単に断じてしまうと、人間の“自由意志”の問題が孕んでいる、極めてデリケートな領域に踏み込んでしまうからだ。俺がそれを避けている訳じゃない。ただ、「時計じかけのオレンジ」から「ナチュラル・ボーン・キラーズ」に至るまで、散々考察がなされてきて、未だに世界を変える程の結論が出ていないテーマだから、レナードのようなライトな作品に絡めて語る必要はないって事だ。
 それでもこの作品で核をなしているのはこうした異常者であって、それについてのみ言えば、作中の異常者は明らかに“自由意志”を履き違えた。大富豪であったそいつは、金と銃で武装していたが、こいつと違い、アレックスやミッキー&マロリーにしても、こうした領域に果敢に踏み込んだ奴らは、己に誠実であろうとしただけでなく、明らかに何かの力を研鑽していた。それは、カネの力なんかではないし、暴力だけではないってことだけは、断言できる。もちろん、想像力もなく、哲学できない異常者には無条件の死が必要だ。その意味でも、本書のタイトルは深遠だ。隣の家の少女 (扶桑社ミステリー)スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)野獣死すべし [DVD]沖縄ダークサイド (宝島社文庫)熱烈!沖縄ガイド (宝島社文庫)エターナルサンシャイン DTSスペシャル・エディション [DVD]スプリット・イメージ (創元推理文庫)時計じかけのオレンジ [DVD]ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別編 [DVD]