Nothing inside Me。

 ジム・トンプスン著、「失われた男」読了。馳星周が、「ホワイト・ジャズ」の解説で、エルロイ作品は特別で〜云々という様な事を書いていた気がしたが、俺にとってはトンプスンについて書くときその気持ちが解る。それほどトンプスンは特別だ。同じ様に感じている奴は他にもいるだろうが、俺には俺なりに特別なんだ、って気持ちを込めて書いてみたい。

 ひとつ読み終える度に、人間性の余計な虚飾が剥ぎ取られて、核心に近づいて行くような気がしている。それは俺の人間性が薄皮を剥くように失われているのかも知れない。人間の表皮に覆われた魔物がずるりと姿を現すようだ。だが同時に“核心”と書くほどの大きなものに近づいている実感もある。それは近づいているものが、表面上絶望にしか見えないが、恐らく世界を構成している“真実”だからなのではないかという気がしている。

 そして主人公は文字通り失われた男。原題は「Nothing man」。直訳すれば「無の男」とでも言えようか。目立つ存在ではない、トンプスン印のいつものろくでなし。加えて、男としての機能も失っているダブルミーニング。チンポなし男の絶望が、かつて、そして今でもチンポが邪魔で、その自己主張に悩まされている俺にとっては、身につまされてリアルだ。チンポがないとどうなるか。性欲がなくなる訳ではないので、その抑圧された欲望は、別の方向へ出口を見付けようとするだろう。とても明解に、それは暴力衝動へと繋がる。登場する女たちも、思わせ振りで、主人公の欠落を見抜くや、チンポなし=人でなしと断じるニンフォマニアのビッチばかり。だからこれらのビッチに向けて当然、主人公の暴力は爆発するわけで、計画らしきものもないまま、主人公の脳内の独白とともに一連の暴力が綴られていく。

 オチ以外は特に新味はない。だが、ただひとつの心を賭けて、スッてしまった俺は、単に異常なことが書いてあるとは割り切れない。さらには、突き付けられた裏切りや狂気によって、俺は代わりに怒りや復讐心で満たされてしまい、魂は地に墜ちた。そうした欠落は不可逆性のものなので、実際その欠落を作った奴らに俺は、自身のチンポを切り取って送りつけてやろうと思っていた位だ。そりゃ心を亡くしたチンポは、タダの欲望の塊で、それでもそこに甘んじているということは、変質者に堕したも同然なんだから。にも関わらず敢えてそうせずにこうしているのは、そこで陥った葛藤、懊悩、煩悶などを全てこうして書き留めることが義務と考えたからだ。それはまだまだブコウスキーの剥き出しの弱さ、そして潔さなんかにはほど遠いかも知れないが、とにかく今は続けるまでだ。

 おっと、話がやや脱線したが、こうして精神的支柱を失った意識の彷徨う絶望の無重力状態から、その向こう側=狂気に至るまでの流れを、同じ様な人間には、そこを呼吸するように自然に綴るのがトンプスンなのだ。中森明夫が解説に引用した、三島由紀夫がかつて他の作品を評する時に使用した言葉、「不愉快な傑作」というのもピタリと来る。なぜなら人が出来るだけ目にせずに逃避してやり過ごしたいものを、これ以上ない的確さで見せてくれるからだ。道端のゲロを細かく分かりやすいディテールで説明するようなものだ。

 もっとも、俺も以前から個人的にトンプスン作品を「悪魔の文学」と呼んでいたが、ベタなのと誤解を招きやすいのとで使い控えていたんだよ。さすが三島、そして中森明夫の解説に敬服。それは何と言っても、ここでも何度か書いたが、その暗黒感に類似性を感じていた「愛犬家連続殺人」との関連を指摘したのは快挙だ。

 あの犯人、関根の鬼畜性はトンプスン的ではないが、神がかった強烈な自負と、そしてルックスが多分にトンプスン的だと思う。根本敬提唱するところの「イイ顔」であるだけでなく、頭はハゲており、亀頭っぽい。チンポ的であることが、トンプスン的であることの条件なのだ。トンプスンとは、正しくチンポに支配された文学のことを言うのだろうとさえ思えるのだから。