ティッシュで拭き取り、処分するような読書。

 それは性欲処理に似ているかも知れないからな。何かのコンプレックスが俺を動かしているのか、単に色んな事を知りたいだけなのか。読んで、ゴミ箱ではなく本棚に収める。そりゃまぁ、あそこまでの虚しさはないから、単に知りたいだけなんだと思いたいが。


 ハビエル・ガラルダ著、「自己愛とエゴイズム」読了。真の自己愛は他者への愛とも成りうるものだ、とこの本では言っている。それは同時に、自己愛を履き違えたナルシズムはエゴイズムそのものであるということだ。俺はその権化ともいえる、害虫のような人間を多数知っている。そいつらは内省する力はないので、死ぬまでその状況を理解することも、脱することもできない訳だ。しかし、それとは別に、周囲から完全に弧絶している人間や、極度に虐げられている(と思っている)人間はどうだろうか。そういう人間にとっての自己愛はとても厳しいもので、安易な自己愛は、そうした状況下にある人間がしばしばジャンキーになるように、麻薬のような一時的な解決と安らぎをもたらすものであることも、見過ごせない事実だ。とはいえ決して望ましい状態とは間違っても言えないが、そこにしか救いの見出せない生も間違いなくあるし、それが必ずしも自らが選択肢を狭めているからでもない場合もある。それを詭弁という奴は必ずいるだろうが、修復不可能で、そこしか居場所のない状態もある、という事だ。だからと言って、己の中で野放図に増殖していくのを見過ごすのは危険だ。自己批判の観点を失わない為にも、俺が100%のナルシストだと仮定したら、そこからどれだけナルシズムを削って、己をゼロにすることができるか、というのは一つの目標だ。でもそれは、無私、というような偽善的なことを言っているのではないけどな。


 エルモア・レナード著、「マイアミ欲望海岸」読了。このダサい日本語タイトルが示すように、レナード作品の中でもかなり初期に位置する翻訳作品。内容もレナードらしさが漲っているとは言い難く、まだ後年のレナード・タッチをものにしてはいない事がよく解る。レナード作品の魅力のひとつには、個性豊かな人物造形が不可欠と思われるが、この作品は全体に、登場人物それぞれが個性的とは言えず、全体的に似たような性格をしているのだ。それも、実際に物語上そうであると言うよりは、確固たる信念や、あらゆる出来事に相応のリアクションをするキャラクターが、善人にしろ悪人にしろ皆無なために、全体に人物がひどくだらしなく見えてしまうのだ。結果、感情移入できるキャラもなく、その善悪の立場も曖昧になってしまい、結末のカタルシスもあるとは言えないものになってしまった。その善悪入り乱れたカオスは、ノワール的にはリアルだと言えるかも知れないが、同時にレナード的ではないとも言い切れてしまう、所々のだらしなさは、レナードらしくていいんだけどね。せっかく冒頭チラッと、主人公の過去の友人として、「ザ・スイッチ」や「ラム・パンチ」(「ジャッキー・ブラウン」)に登場する、ルイス・ガラとオデール・ロビー(映画ではルイス=ロバート・デ・ニーロと、オデール=サミュエル・L・ジャクソン!)もゲスト出演する豪華さなのに、ちょっと勿体ない作品。


 杉作J太郎著、「男の花道」読了。自分の抱く正しさを、自分の中に如何に確立し、維持するかでしか膠み出て来ない格好良さがある。しかし、その客観的な格好良さに自覚的であっては膠み出て来ない矛盾がある。そして、格好良さを悟らせまいと、必死で覆い隠そうとする滑稽さが醸し出す、絶妙な笑いがある。そこには、一見やる気のない画風に見せかけながら、笑いに圧倒的な説得力を持たせる、的確な“ヘタウマ”力がある!などと、敬愛する杉作さんの作品に対しておこがましくも感じてしまった。そりゃヘタウマは、ヘタなのではなく、ヘタウマという種類の才能なんだから当たり前だけどね。まぁそこに強く思いを馳せた原因は、やはり杉作さんの力。ボロ部屋の壁の崩れ落ちるリアリティと、片想いの女を祀る神棚を自室に作る男たちのリリシズム。これらを理解できない、大多数の女に対する絶望。絶えることのない、少数の女への理解されたいという憧れ。泣けたぜ。格好良すぎて、杉作さんが、若山富三郎に見えてくる。自己愛とエゴイズム (講談社現代新書)マイアミ欲望海岸 (扶桑社ミステリー)ザ・スイッチ (扶桑社ミステリー)ラム・パンチ (角川文庫)ジャッキー・ブラウン [DVD]男の花道 (ちくま文庫)