(以下の文章で本書の結末や細部について触れています。ご注意下さい。)

 ←なんて事を書くまでもなくトンプスンとチンポのイメージは密接で、ただ、こう書くとお定まりの男根主義の様なものかと誤解されるかも知れないが、そうではない。「残酷な夜」(「サヴェッジ・ナイト」)の主人公は最愛の女に斬り刻まれ、自身がペニスの様な肉塊となり果てた。「死ぬほどいい女」で主人公は決定的な人格崩壊の末、現実でも狂気の世界でもペニスを失った。「グリフターズ」や「ファイヤーワークス」における近親相姦的イメージもひとつのバリエーションかも知れない。そう、トンプスンの場合、チンポは悉く病んでいるのだ。

 それは恐らく、子をなしてはいても、アル中でインポだったと思われるトンプスン本人の実感と無縁ではないだろうし、彼の愛したスウィフト(人類を徹底的に憎悪した)の影響からか、不能であることが美徳のようにも思えてくる。つってもその美徳は一切報われることもないが。トンプスン文学では、子をなした主人公もいなけりゃ、他の作品でも、大抵色欲に支配される奴は破滅する。セックスが死に直結するなんて、まるで安物ホラー映画だぜトンプスン。軽口はさておき、ここまで実りのないセックスにこだわるのには理由があると思う。さらに本書の主人公に至っては予めセックスから拒絶された存在ですらある。

 そこで気になったのは、逆の実りのあるセックスである。それは定義として、人間は必ずしもそうとは言えないにしても、生命にとっては子孫が残ることである。生命にとって過不足ない全能感。恐らく思い上がりなどではないストレートな生命の充足を子供やその生命の連鎖は与えてくれるに違いない。その連鎖が達成されれば、最早死は恐るるに足りないものだ。人間以外の全生命は喜んで死んでいる。

 では逆に不能感とは何か。それは子をなせる(チンポなしではない)にもかかわらず、そこから拒絶、排除されることかも知れない。それは、分かり易いところで言うと、「深川通り魔殺人事件」の犯人・川俣軍司が、通りすがりの母子を刺殺した理由として供述した「子供を持つ人がうらやましく、手当たり次第うっぷん晴らしをしてやった。」に近いかも知れない。そりゃこれが全部正しいとはさすがに言わない。しかも、この先に続く言葉は「俺はサムライだから〜云々」という、キチガイにしか吐けない言葉なのだから。

 それでも、そうした世界から拒絶された人間の絶望を端的にでも表している言葉として忘れられないと思うんだ。それはトンプスンが全世界の不能感を代表して描いているからに他ならない。それは要するに、小説を通して全ての絶望を体験できると言うことなのではないかと思う。俺はリアルにそんな状況故、別に体験と言うほどではないが、そんなことを知りもしない人間にとっては、これは臨死体験にも匹敵する貴重な経験となることだろう。そりゃそうだ、快楽としてのセックスしか追求してきていない人類にとっては、チンポなしは正しく、死以外の何ものでもないんだから。要するに即物的なセックスの否定は、人類の次のステップへの模索に当然連なり、故にその独自性はトンプスン(という悪霊とその文学)を現在まで生き残らせ、再評価させている一因だと言うことだけは断言しておく。そう断言するのもセンズリしながらだとリアリティを増すので、一応切り取られるはずのチンポで、マジにセンズリしてから一気に書いてみた。失われた男 (扶桑社ミステリー)ホワイト・ジャズ (文春文庫)愛犬家連続殺人 (角川文庫)残酷な夜サヴェッジ・ナイト (Shoeisha・mystery)死ぬほどいい女グリフターズ (扶桑社ミステリー)深川通り魔殺人事件 (新風舎文庫)