エドワード・バンカーとの、八年間の回り道。

 エドワード・バンカー著、「アニマル・ファクトリー」読了。とうとうこれで、一昨年没した、伝説の作家の全作品を入手し、読破することとなる。長い旅だった。あれは確か8年ほど前、「ドッグ・イート・ドッグ」を手に取ったのが始まりだった。「あの頃のわたしは…まだ何も知らなくて…思えば…幸せだった!」(by楳図かずおわたしは真悟』より)とでも言いたくなるほどの感慨。エルロイを発端としてこのジャンルに手を染めた俺が、帯に「エルロイ羨望」云々と書かれていたために、せいぜい軽く嗜むべきものと手に取った暗黒小説が、人生を左右することにもなってしまったということだ。それが良いのか悪いのかは不明だ。しかし、連動して、その時の記憶と、作品のリアルなディテールが蘇ってくる。

 バンカーが「レザボア・ドッグス」に出演している俳優の一人で(「レザボア〜」はとっくに観ていたが、Mr.ブロンドの前に霞んでしまっていた、Mr.ブルーの存在は特に気にしていなかった)、どうやら本業は作家であること、テーマとしているのは自身がプロの犯罪者であった経緯から、その経験や、刑務所生活に着想を得ているものが多いらしいこと、等はまだ知らず、それらの情報をこの本の解説から吸収したのであった。強盗たちの犯行そのものを描いた物語は、非情な話だとは思ったが、ボリュームが軽めと思ったので、解説にあった「ストレートタイム」が復刊されて間もないことを調べ上げ、早速入手し読むこととなる。

 そしてそれを手に、まだ人間を必死で信じようとしていた俺は、その時点で俺の中に残っていた、愛と呼べるかも知れない、少なくともそれに似ていると思っていた感情を頼りに、沖縄へと一人旅立った。そこで愛についての確信めいたものを得て(ただ、そう錯覚していただけだった)、道中読破した興奮と共に東京に戻ってきた俺は、この作品で描かれた、社会復帰を望む前科者に降りかかる非情極まりない現実と孤独が、未だ経験したことのない重量級のパンチであったが故に、俺にはどうか降りかからないで欲しいものだと祈りながら、愛に生きる決心をしたのだった。つまり、その時初めてバンカーの真の力量を感じたことになる。暴力だけではない。リアリズムだけでもない。厳格で、非情で、崇高ですらあった。要するに、読む順番を間違えてもいたのだと思う。当然、ダスティン・ホフマン主演の映画化も観るが、とても原作には及ばなかった。他の暗黒小説とは確実に一線を画している“身につまされ感”と、本物だけが持つ、拭えない凄みがあった。

 以来、「ストレートタイム」をバンカーの最高傑作として、愛に生きようとするが故に全てを封印した俺は、一時読書からも距離を置き、慢性的な耐乏生活に入る。愛だけが全てを解決すると、根拠のない狂信を抱きながら。精神の異常を来した為に、一時別居することになった女は、「元の生活に戻る為に自分を建て直す」と言っている裏で男を作り、その男を通じて、「(俺の)部屋にある女の荷物を返さなければ、殺す。返せないならカネを寄越せ。寄越さなければ、殺す。」(録音したテープの概要)というような脅迫電話を頻繁に繰り返してくるようになり、それは完全に無視した上で、女の父親への筋を通す意味で荷物は女の実家の沖縄へ送り(しかも沖縄から東京に送らせて取り戻すには、逆に金がかかる代物ばかりをチョイス)、奴らの鼻を空かせることにする。

 しかし、バンカーの本にある、事実としての非情な世界に触れてしまっては、現実に俺の身にママゴトのように現実味のない脅し文句が並べ立てられても、嘘臭くしか感じられず、その気違い男は他でもそのような脅迫騒ぎを事あるごとに繰り返している、救いようのない前科者(当時42歳)であることも、さるルートから突き止め、信じていたはずの女が、その程度の男に依存することでしか自己を保てなかった現実にひたすら失望し、そんな女を何度も許そうと試みた自分自身も非常に情けない思いだった。結局愛に裏切られ、生活も破綻した事でようやく悟った。全ては、嘘だったのだ。

 重度のアルコール依存症でもあるその気違い男は、それからも俺の実家の両親に宛てての脅迫電話や、俺への未練を口にする女を殴っては逃げ出され、その度に「女をカネで買い取れ。今まで女にかけた金額、40万円で買い取らなければ殺してやる。」(録音したテープの概要)などと繰り返していたが、俺が電話番号を変え、一年ほどしたところに、とうとう警察沙汰になるほど女に暴行を加え、逃げ出された挙げ句に俺のクソ職場へ、俺の親戚を詐称して脅迫電話を入れ、女の居場所を突き止めようとしてきたのだった。そんなもんもちろん知るわけがねぇ。全然最早バンカーと話が離れてしまったところで戻るが、丁度その時が再度バンカー作品を手に取った二年前、読んでいたのが「リトル・ボーイ・ブルー」であった。フーッ、やっと戻ったぜ。

 この件は当時の上司の英断で、男を散々たらい回しにさせた挙げ句、何も情報を与えず、一切無視することに成功した、ってそんな手間かけさせるんじゃねぇよ、気違いも程々にしろ。という感じだが、重傷を負わされても女は男の所に戻ったらしい。今も暴力を受け続けていることだろう。「リトル・ボーイ・ブルー」の主人公アレックスは、一切の支配と権威を嫌い、施設からの脱走を繰り返すが、この女にはそんなことはできないのだ。今まであまりにも多くのものを壊し、大勢の人間を死に至らしめてきた(男を自殺に追いやること一回、妊娠中絶三回。もちろん、俺は関係ない)。もう戻れる場所など無いので、ゾンビがショッピングモールに行くように戻るしかない。気違い男も自分の家庭を崩壊させた過去(離婚歴があり、子も成している)があるので、ケツに火がついているのだ。セックスと暴力で人間を支配する関係は、“福岡一家七人殺し”の被告、松永太と緒方純子のような関係を彷彿とさせる。こいつらもいつか何か大それた事をやらかすことだろう。その日が楽しみでならない。

 そこで、通常の人間なら安易な癒しを求めるかも知れないが、ウザい事が一段落した頃に「エドワード・バンカー自伝」に着手したわけだ。その頃にはもうこのブログも書き始めているので、興味のある方はその辺を参照下さい。

 そしてようやく今回のラス一、「アニマル・ファクトリー」となるわけだが、これが最終作ではないにしても、作家としての円熟を感じずにいられない。甘さの一切無い筆致からにじみ出る激情、クールな会話の端々から覗く知性と獰猛さの同居、しかも舞台は今回に限って刑務所の中だけで展開する。その獣の世界だからこそ本当に意味を持つ礼儀、ともすれば同性愛的にすら見えるプラトニックな友情。全てバンカーにしか描けない濃密な世界がある。そして事の大小はあれど、管理される人間など、実社会でもこうした暴力と狂気に晒されていることを痛感するのだ。バンカーはムショを通してそれらを戯画化して見せたに過ぎない。ブシェミによる映画化は、具体的な描写に努めることで、そこそこ原作のエッセンス抽出に成功しているが、抑えた情感においてはやはり原作の完成度が高い。

 本来なら生い立ち(「リトル・ボーイ・ブルー」)→犯罪(「ドッグ・イート・ドッグ」)→服役(「アニマル・ファクトリー」)→出所(「ストレートタイム」)→といった一連の“小説”の後に「〜自伝」を読むのが順序として一番真っ当かも知れない。そう考えると俺は、実人生も、バンカー作品の読み進みも共に、大きな回り道をしてきた。そうかも知れないが、バンカーの生涯を貶める気はないにせよ、彼こそが人生の大半を塀の中で過ごし、大きな回り道をしながらも、不屈の精神でそれを切り抜け、勝ち負け抜きに戦い抜いた。その故に彼は名を成した。ならば回り道に意味を持たせるには、俺自身もバンカーの様な不屈の精神を培わねばならないと思うのだ。彼の人生を構成する、パズルのピースを全部埋めた今、よりそう思う。それは当然俺だけでなく、回り道の有無に拘わらず、全てのバンカー読者がそうあらねばならない事を祈ってやまないのだが。アニマル・ファクトリーアニマル・ファクトリー [DVD]ドッグ・イート・ドッグ (ハヤカワ文庫NV)わたしは真悟 1 無よりはじまる (スーパー・ビジュアル・コミックス)レザボア・ドッグス スペシャルエディション [DVD]ストレートタイム (角川文庫)ストレート・タイム [VHS]リトル・ボーイ・ブルーエドワード・バンカー自伝