映画における“贅沢”を判断する好例たち。

 先日はP2さんのご招待で、北野武の新作、「監督・ばんざい!」試写へ。今回の作品は、制作を伝え聞いた段階から、前作「TAKESHIS'」と相当に深い関係、もしくは敷衍しているものではないかと目していたが、その意味においては予想は外れていなかった。
 ただ大きな違いがある。前作は、“武が見せたいたけしの頭の中”(=意識、または作為)だったかも知れず、その見せ方に気負いと衒いがあり、工夫と、計算された笑いがあった。そこにはもちろん約束があり、その枠の中で俺も笑わせてもらっていた記憶がある。もちろん京野ことみの無駄脱ぎも、その中に含まれているし、徹底した無能ヤクザで新境地開拓した石橋保にしても、新鮮な驚きではあったが、意外性のある人物の起用という、北野武が一貫してきたルールには忠実であると思う。
 だが率直には、今回、北野武が挑んだのは、そうした“約束事の排除”にあったのではないかという気がしている。それは前作との対比で言えば、“たけしが観たい武の頭の中”(=無意識、または無作為)と言い換えてもいいかも知れない。前作が意識して前向きに作られたものであるならば、今回は後ろ向きというわけではないが、出来る限り直感的な感触を残したかったのではないか。贅沢なキャスティング、ロケーションや特殊効果の無駄な多さは、それを生のままで提示してしまうことへの武の“照れ”であるとも言えるし、武なりに観客へ貫いた最低限の礼儀とも取れる。
 なぜならそれだけでは、“自分の思考の供養”という感触が強く残りすぎるからだ。要するに、無意識であればこそ、死臭が強すぎるんだよ。そこで図らずも、武はの脳内は通常の意識でも無意識でも、“死”が大きな部分を占めていることを露呈し、観客は従来のたけし映画と通底するものを見出すだろう。これは紛れもない、純粋たけし映画であることを。といってもそんな深刻さは微塵も見せず、「TAKESHIS'」以上に下らなく、感触は「みんな〜やってるか!」に通じる下らなさで畳み掛けてくるので心配要らない。あの感覚が好きなら十分について来られるリズムを持っている。
 そしてあの下らなさを超える不条理さ。物語性の放棄。そこに尋常ではない金を掛ける贅沢さを考えたとき、タイトルの意味が分かった。アーティスティックな映画作家であれば、どんどん資金繰りに困らされている、この映画をめぐる世界的な現状において、そんな贅沢さで、制約を受けず下らないことに挑戦できる世界で一番幸福な監督、それは武自身なんだ。そりゃ、「監督・ばんざい!」だぜ。
 だが、それは賛歌でもあり、同時に、“バンザイ突撃”のような、投げやりな禍々しさも孕んでいる意味合いがある。捉え様によっては自殺、もしくは自決。これはネタばれでも何でもなく、やはりここでも「座頭市」を除いた北野映画の絶対律は守られている、ということだ。映画自体が武の脳内分析であり、たけし自身のネタばれでもあるが。
 しかし、“武”にしろ、“たけし”にしろ、“分裂した自身への偏愛”という、極めてジム・トンプスン的な人間である彼の、監督の部分がもし死んでしまったら、たけし映画の次作はあるのか。そんな不安も残す問題作で、妙な余韻がある。もはや武は、トンプスンが差し掛かりかけて、完全な完成を見ることまでには至らなかったジャンル、即ち、従来の実存的ノワールではない、観念的ノワールに踏み込んでいるのだろうか。



 また別の日には、ワーナー・ブラザーズさんの御招待で、「リーピング」試写へ。ロバート・ゼメキスジョエル・シルバーによるホラー専門制作会社、ダーク・キャッスル・エンターテイメント謹製のホラーであり、その中のジャンル分けでも、懐かしい“オカルト映画”とも呼べるジャンルが現代でも可能か?というテーマに果敢に挑んだ意欲作である。
 アフリカ帰りの元聖職者が超常現象に挑むという設定が、「エクソシスト」、ローカルな地域に根付いてしまった原始的な秘儀、もしくは邪教信仰や異端をテーマにしていることから、近いところでは「スケルトン・キー」や古くは「ウィッカーマン」(黙殺されたリメイク版のことではない)といった、過去に腐るほど作られてきたオカルト作品へのオマージュを感じるし、このジャンル回帰は意図的なものだというのが良く分かる。
 監督も手堅さでは定評のある、スティーブン・ホプキンスだ。俺は彼の「プレデター2」の完成度ゆえに、以来、絶大な信頼を置いている(「ロスト・イン・スペース」は、なかった事にしてやってくれ)。
 しかしそれ以上に本作は、完全にヒラリー・スワンクのイメージビデオとしての意味合いが強く受け取ることが出来たのが、俺としては非常に好感触で、至福の時を過ごさせていただいた作品であった。彼女の男に媚びない、野生の動植物のような美しさを存分に堪能できる。その美しさ=力強さは、花がまさに発情していることへの自覚から生まれるのではないか?と思われるほど、演技も仕事選びも迷いがない(少なくともそう感じられるだけの、嫌味を感じさせない女の強さがある)。腋毛は剃っていても、そんな自然な、“当たり前の美”が、今やスクリーンを通して有難がらなければいけない程、貴重で希少なものになっていることが、化粧品臭ぇ街を歩けば強く感じられるぜ。
 加えて、「チャーリーとチョコレート工場」で目を引いたガム美少女、アナ=ソフィア・ロブも健闘。でも、初潮を想起させるような描写はやめてくれ。それは映画の評価とか感想とか以前に、それこそ俺が、どんなホラーよりも一番不快に思うものだから。偶然に見た死体写真の不快感に近い。だからといって、映画自体の印象が全体に悪くなかったのは、監督のお蔭かも知れないな。



 さらに別の日には一観客として、「13/ザメッティ」鑑賞に劇場へ。この程度のバジェットの、ほぼ自主制作に近い、しかもヨーロッパの映画を、ミニシアターでもキチンと公開する日本は、まだ捨てたもんじゃないかもしれない、と思わせるほどの、極上の緊張と、ヨーロッパならではの冷たさが堪能できた、暴力の小品。
 超傑作、とは言い難いが、緻密に組み上げられた小さな工芸品を見つめるような感覚で、俺は作品に見入ったことは事実だ。その透徹した人間不信と突き放した感覚は、まさにヨーロッパでしか絶対に撮れない空気感で、そんな感覚を与えてくれる映画を久々に観た気がしたから、傑作とは言えると思う。
 やはり登場人物の突き放した末路を描かせたら、ヨーロッパには勝てないんだよ。それはこの作品がモノクロで撮られていることだけではなく、欧と米の決定的な人間観や、人生観の違いが表れているからだ。フランス映画でモノクロ、同録でアンチクライマックスといえば、短絡的にはヌーヴェルヴァーグの影響も否定出来ないだろう。
 しかし、そもそも人間観やその残酷さを描くことに関しては、文学に始まって、ヨーロッパには一貫した伝統があり、そこに違わないという点でも、偽善的な未完成の人間観が行き渡っている、日本での公開は喜ぶべきことかもしれない。ヨーロッパを全部真似しろというのでも、ヨーロッパが正しいというのでも何でもない。判断材料が多いというのはいいことだからよ。
 それはおいても、暴力描写に関しては貧乏だが、映像はスタイリッシュで美しいという、ちゃんと力を入れるべきところに力の入っている映画が正当に評価されるというのは、ヨーロッパが正しく“大人たちの国”であることの証明だと思うし、ごくシンプルな“ロシアン・ルーレット”という、ブラック極まりない遊戯を、徹底的に凝視した初の映画だと思う。
 アメリカにリメイク権を売却しても、きっと、その完成度と人間観に近いものを感じるベルギー映画「ありふれた事件」と同じようなことにしかならないと思うぞ。あれも公開から10年程経過するが、公開当時決定したという、アメリカでのリメイクというのも、以来全く音沙汰がないからな。
 それにしても、単に地下世界の話というだけで、「ファイト・クラブ」と絡めた映画評をチラシに掲載するのはもったいない作品だ。これはこれで完全に独立しているし、「ファイト・クラブ」のような思想はないが、類い稀な“緊張感”という、唯一無二の個性を持っているのだから。TAKESHIS' [DVD]みんな?やってるか! [DVD]エクソシスト ディレクターズカット版 [DVD]スケルトン・キー [ユニバーサル・セレクション] (初回生産限定) [DVD]ウィッカーマン 特別完全版 [DVD]プレデター2 (新生アルティメット・エディション) [DVD]ロスト・イン・スペース [DVD]チャーリーとチョコレート工場 [DVD]ありふれた事件 [VHS]ファイト・クラブ 新生アルティメット・エディション [DVD]