映画鬼哭道を往く日、その(赤い)収穫。

 何人かのバカ観客がストロボ撮影されたシーンで気持ち悪くなったとか、「バベル」について、そんなのいちいち報道すべきじゃない。そんなのはニュースにもならないクソだ。
 そうした現象が世界で続発しているならまだしも、そんなの脳が未熟な、映画を観る資格のないバカ日本人だけだぞ。聞けばババアばっかりだって言うじゃねぇか。“ババアに優しい”のは、最早芸術とは呼べないんだよ。そして観客自身も、観る許容力が失われたと感じたとき、老いを受け入れるべきだ。
 報道する価値があるのは、「プライベート・ライアン」や「パッション」の様な超暴力映画で、観客が何人ショック死した(実話)とか、そんなニュースだけだが、“観客自身に求められる内省”が出来る視聴者に向けたニュースは、そもそもテレビは発信しないからな。
 それでもテレビもよ、晩飯時に仕事もしねぇでニュース見てるババアを意識し過ぎだぞ。ニュース屋、こいつらもまた、クンニ職という“不浄職”也。
 今後は「ドラゴン怒りの鉄拳」でブルース・リーが激怒したような、「犬と中国人入るべからず」といった公園の但し書きみたいに、映画館に「犬と馬鹿は入るべからず」と書いておいた方がいい。どうせババアだ、陳真みたいに看板蹴り割る余力はもうないし、心配と言えば、字が読めないんじゃないか?って位のもんだからな。


 おっと、そんなクソより、映画の日一本目に設定した、「バベル」作品自体の話をしよう。
 結局のところ、予告編が一番良かったな。解り合えない人間同士の断絶と孤独が、端的にではあるが非常に明確に打ち出されていたからだ。泣いてしまった。
 ま、泣いたからいいという訳でも何でもないが、観る者を揺さぶる何かがあった。
 前二作の様な、シナリオ上の凝った構成といったものがどれだけ複雑精緻になっているかを気にしていたので、そうした観点ではむしろ今までとは逆に、物語を整理して、個々のエピソードの繋がりを強調しようという意図が働いていたように感じた。
 ここで描こうとしているのは“断絶”と“連鎖”である。理解し合えないという点においては、人種男女の別なく同じであり、それを感じられるか否かは個々の感性の鋭さだけだ。気付いてなくてもそれは世界にあまねく行き渡っている。
 だから今回は、菊池凛子の演じた聾の女子高生に、そのキャラクターならではの断絶の哀しみ、愛の渇きといったものが感じられず、そうした欠落をすぐセックスで満たそうとする設定が非常に不快だった。これは彼女の演技の問題でなく、物語の設定上の問題だ。
 これでは彼女が単なる脱ぎ要員であるばかりでなく、マンチラ要員だという点ばかりが浮き上がってしまう。シャロン・ストーンに仁義は切ったんか?そればかりでなく、孤独をセックスで解消できると錯覚しているキチガイ女は、健常者にこそ多いんだから、これでは彼女が聾であるという設定も飛び道具的に見えてしまう。
 「クラッシュ」がやったようにファンタジーではなく、“断絶しているのにみんな繋がっているという矛盾”もしくは、監督が一貫して追究している、“不幸のカオス理論的連鎖”が描きたいのなら、個々のディテールへのより徹底した煮詰めが必要だということだ。
 志は高い。ただ、それが結実していないのだ。息を呑むほど美しい風景が切り取られていても、それだけなら、映画をわざわざ観るという行為には結び付かないのだから。次に期待させてくれ。


 二本目は「ハンニバル・ライジング」へ。この主演俳優、ギャスパー・ウリエルを「アメリ」に出演していた俳優と勘違いしている奴が、世間には存在するようだが、そんなことはない。「アメリ」と同じジャン・ピエール・ジュネ作品「ロング・エンゲージメント」に出ていただけだ。
 とはいえ、いいじゃん、ウリエル。異常者の風格に満ち満ちているよ。それもただの異常者じゃなく、よりによって天才レクター博士なんだから。
 しかし兄妹(姉弟)を食われた事ばかりクローズアップしていると、究極の異常者にして天才、という、殺人鬼の類型では破格の扱いを受けているレクター像が、陳腐になるぞ。
 そもそも、初登場の「レッド・ドラゴン」や、それに連なる「羊たちの沈黙」では、明らかに彼のモデルをヘンリー・リー・ルーカスに材を取って描かれていた。
 その功績を描いた「ヘンリー」はともかく、最厳重警備房で、FBIにアドバイスを求められるというところが。それが、今度は出身地も近いアンドレイ・チカチーロ(モスクワオリンピックのマスコット、小熊のミーシャがトレードマーク)かよ。兄妹(姉弟)を食われているのは共通しているが、それとその復讐ばかりをクロ−ズアップすると、レクターのキャラが弱くなってくるのが心配なんだよ。過去の殺人鬼の寄せ集めじゃ、天才とは言えないぞ。
 それでも、監督と役者が変わっても、殺しの手口の残酷さに手抜きはないのは称賛しよう。殺人鬼とはいえ、前二作を見れば解るように、単純に手に掛けた人間を殺すとは限らないのがレクターのいいところで、死ぬよりももっと酷いカタワにすることだってある。それが「ハンニバル」のメイスン・ヴァージャーのような、素晴らしく歪んだ化け物を作り上げた。暴力が、単なる損壊ではなく、芸術的創造に昇華しているのだ。
 その萌芽を若き日のレクターに見出させたのは素晴らしいし、このヤング・レクターの今後の可能性も感じさせる。敵役のリス・エヴァンスも期待通りの異常な存在感だ。
 しかし、映画版「ハンニバル」ですら言及されていた、彼が多指症であった事実が完全に省かれているのはどういう訳か。多指症の描写が猟奇殺人に絡められると、差別を誘引する可能性があるとでもいうのか?だったら豊臣秀吉(権力者特有の殺戮してるし)にまつわる事実、突出した才能を持つ京劇の女形さらば、わが愛/覇王別姫」や、「シグルイ」の岩本虎眼先生の様な、“天才”描写も差別的というんか?「ロング・エンゲージメント」でウリエルは、指が一本なくなる役だったのに。
 いや、別に差別的だっていい。話に整合性をつけてくれればいいんだよ。そこら辺を見ると、映画が綺麗事かそうじゃないかが分かるから。


 三本目は、ミシェル・ゴンドリーの新作、「恋愛睡眠のすすめ」へ。これは、やってることは同じ監督の前作「エターナル・サンシャイン」の発展型で、やってることは大して変わらないように見えるが、もっと深く、夢とか人間の無意識に迫ることに成功している。やっぱ前作は、あれがアメリカ映画の限界だったんだよ。
 今回、より観念的なテーマに取り組めたのは、やはりフランス資本を得て、ロケもキャストも大半がフランス勢を占めるという、理解のある環境が大きく作用していることは間違いない。そこそこ哲学的で、アメリカ映画より無防備で自然なエロ。それがフランス映画ってもんさ。
 そのせいか「21g」ではあんなに華のなかったシャルロット・ゲンズブールも、実に活き活きとキュートに撮られている。ガエル・ガルシア・ベルナルのチンポも拝めるぞ。
 とりわけ暴力(特にそこに背中合わせの暴力を振るう快楽)についちゃ、あまり優れた映画的表現のない国だけど、今回みたいなテーマにはお誂え向きだ。
 ただ、タイトルやアートワークの甘さに、「アメリ」の悪夢の再来が懸念される。要するに騙されるフシギちゃん(という名のキチガイ)が続出しそうなんだよ。
 モデルアニメを多用した、凝ったアートワークなんで、それ自体は、夢のリアリティと、捉えどころのなさ、という両極端が表現されていて、そのザラついた生々しさは驚嘆に値する。
 これは映画の視覚的効果を高める上で、非常に誉めるべき所なんだが、問題はそれが多用されているせいで、前述のキチガイに間違った解釈をさせる恐れがあることが、「アメリ」同様、非常に歯がゆいんだ。
 それは主人公の主観の危うさが、「マトリックス」がキチガイに与えた影響を考えると、全く別種の話ではあっても、ちょっと怖くもなる。
 事実、夢に執着する人間なら、自分の脳の輪切りを客観的に眺めているような、ディック的なインナースペース体験を仮想的に味わえる(実際、「バルジョーで行こう!」で映画化されたりと、フランスでのディック人気は相当なもんがある)。ドラッグを利用した内宇宙探険が「スキャナー・ダークリー」に代表されるディック自身の著作(または、後のそのビジュアル化)ならば、これは同じ手法で、“夢”という無意識の観点からそれを試みている。
 夢に悩まされていたり、夢の生々しさに戸惑いを感じたり、自分の夢から意味を抽出したい人間は必見。でもこの邦題は何とかしろ。原題は「Science of sleep」って、そのものズバリのタイトルなんだから。騙されるな!観ないと損だぞ。


 四本目、「リンガー!替え玉★選手権」へ。
 先ほどは本物への差別的な言葉をひとしきり書いておいたが、俺にとっての本物とは、この映画に登場するような“医学的”に本物と認定された人たちのことを指しているんじゃない。
 言い換えるなら、「小市民的いじましさと、偽善的な小さい倫理観を併せ持つ奴ら」を俺は馬鹿と呼んでいる。そしてその割合は驚くほどババアに多く、もちろんジジイもいるが、若い奴は意外と少ない。
 それは若い奴が素晴らしいんでも何でもなく、単に無知だったり無気力だったり、精子の薄そうな奴が多いから。さらにババアの予備軍である若い女は、馬鹿とは呼べないほど欲望に忠実で、これは俺にとっては単なる気違いだと認識していたりする。それもコイツらが悪いのではなく、欲望をあおり立てる世の中が、コイツらをそうしているんだが。
 まぁ、大いに脱線したが、要するにこの映画が描いているのは、一見そうした医学的に本物の人たちを描いているように見せながら、実はそうではないことだし、そう見ている奴らの偽善性を暴く巧妙な物語なんだよ。それは今回プロデュースに回ってはいるが、「ふたりにクギづけ」で最大限に発揮されたファレリー兄弟の志が、はっきり刻印されているということの証拠だと思うし、例えプロデュースのみに回っても、従来のファレリー兄弟監督作品と同じ作家性を貫いているのは、何か最後の譲れない意地の様な凄みを感じる。
 話は知恵遅れとされる人たちの参加する、障害者オリンピック(劇中では“スペシャル・オリンピック”と曖昧な表現をしている)に、健常者が知恵遅れを装って大勝ちし、スポーツ賭博の上前をはねようと言う、いつもの露悪的な設定。
 でも、至る所に“医学的”な本物が出ているし、協力的で驚くべき演技を見せる。そんな映画が差別を描くもんかよ。感じたのは、俺もガキの頃よくやったけど、“あれ系の真似”って、分別ついてくると余計難しいもんだし、それをコピーさせようとする主人公の伯父さんが用意した教材が、みーんなハリウッド映画(内訳:「フォレスト・ガンプ」、「アイ・アム・サム」、「グリーンマイル」、「レインマン」等々)って事だ。
 要するに、全部、名演技でも何でもなくて、普通の俳優がやってる“あれ系の真似”じゃねぇか。この映画はそう言っている。映画が表面的に見せている内容と、結果的にはこうして公開された(配給会社の英断には感謝!)が、あわよくばお蔵入りにしようとした日本の姿勢と、どっちが差別的だ?そのことが引っかかる。思ったほど毒はないが、意欲作。


 ラストはキム・ギドクの処女作、という触れ込みの「鰐/ワニ」へ。
 チョ・ジェヒョン主演と言うことだと、既に公開された「悪い男」やその他諸々を思い出すが、今回は要するに乞食の話である。アウトローのくせに組織に属してもおらず、ただ濡れ手に粟を求め続ける愚かな主人公は、そのこと以外は全く無目的にこの世を泳ぐ。
 故に常に痛い目に遭わされ続け、家族のような関係を構成している、乞食の子、乞食のジジイにまでも煮え湯を度々飲まされる。要するに、エピソードばかりが勃起して、それぞれが連結せず、宙ぶらりんになっているような不安定感を感じる作品。
 着眼点はセンセーショナルでも、こうダラダラとやられては、「絶対の愛」の悪夢が蘇る。この監督は、結局、着眼点・衝動的なアイディアのみの作家なのだと、他の俺の鑑賞してきた作品にしても、しみじみ思う。
 つまり、それぞれのイメージやエピソードが凶暴な意志をはらんでいても、それが連動し、リズムを構成しない限り、それは何のメッセージにも作家性にもならない。映画を観ようとして、映画を観に来ている意味がない、ということになる。映画を観に来た人間に絵画を見せてどうする。
 これが本当にこの監督の処女作なら、早くも底は知れてきた。寓意性への逃避。今後はそれを裏切ってくれることを望むのみだ。
 ただ、チョ・ジェヒョンに当然のように犯される、ウ・ユンギョンには、正直欲情した。勃起はしなかったが、勃起できる作品には4、5.年に一本出会えればいい方なので、単に美しいだけでは欲情に結びつかない(「パフューム」の女がいい例だ)俺としては、得した気分になったのは一点のみ。
 自殺しかけの女を、頼まれもしないのに助け、そのことを恩着せがましい理由にして、女を犯すという、卑劣極まりない主人公の行いは、短絡的な嫉妬から俺を度々脅迫してきた変質者を想起させるが、女が愚か(または白痴)で、且つ美しければそれも仕方がないかも知れないものなんだ、と画ヅラで魅せてくれたのを評価しよう。しかも、映画から貴重な欲情をさせてもらえたことに感謝。プライベート・ライアン アドバンスト・コレクターズ・エディション [DVD]パッション [DVD]ドラゴン怒りの鉄拳 デジタル・リマスター版 [DVD]クラッシュ [DVD]氷の微笑 [DVD]アメリ【期間限定スペシャル版】 [DVD]ロング・エンゲージメント [DVD]レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙 [MGMライオン・キャンペーン] [DVD]レッド・ドラゴン コレクターズBOX [DVD]
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