一度きりの暗黒によせる、一度きりの愛、そして宣戦布告。

 アンドリュー・ヴァクス著、「凶手」読了。俺は正直言って、ヴァクスという作家には全く興味がなかった。そして今に至るまでもあまり興味が持てない。

 何故なら、ヴァクスの児童虐待を告発する為に小説を書くという志は、俺にはあまり重要ではないものだし、結局それがメインの作家である(「バットマン」にまで、児童虐待を持ち込んでいる!)為に、シリーズものを手掛ける事で他の部分にパワーを割かずに一貫したテーマが追究できるようにしているのに加え、登場人物個々の精神の暗黒面に生死ギリギリまで迫っていないからこそ、シリーズとして続けて行けているわけだ。要するに、ヴァクスは、世間がどう評価していようが、厳密にはノワール作家ではないと俺は思っているし、この作品を読んでもその印象は変わらない。

 しかし、この作品に関しては、ノワール的な指向性は極めて高いし、こうしてシリーズものに頼りさえしなければ、ヴァクスは濃密な精神の闇を描き切るセンスのある作家なんだということは、この殺伐と美しい作品からよく分かった。もうこうした作品は期待出来なさそうだが。

 因みに、俺にとって児童虐待が“あまり重要ではない”と書いたのには理由がある。俺がこの十年ほどで追求しているテーマは人間の悪である。ならば余計に重要視すべきテーマではないかと言う向きもあるだろう。確かにそうだ。児童虐待は強大な悪だ。だが人類を覆う悪の根本ではない。暴力のような、もはや言語に肉薄するほどのコミュニケーションでありながら、人間の負を象徴しているものではない。悪や、それを取り巻く悲劇の原因にそれが多少なりとも作用しているのではないか?という程度の認知がされ始めただけのものだ。

 明るみに出なかっただけであるというのは充分に分かることだし、ここに至るまでに時間を要して研究が為されている事も分かる。だが、これは人類が根本的に抱えている暴力という病の一部分であって、暴力を論じる上ではまだあまりにも未成熟な分野だ。それに、まだ因果関係が完全に立証されてはいないために、自分がダメな原因や、世の中がダメな原因、その他諸々を、何でもかんでもこの「児童虐待」という便利な代物のせいにしたがる馬鹿がまだ結構多いこともある。

 事実、俺をこの現状に陥れた、気違いの女(沖縄県石垣市出身)が、慢性的な社会病質者になった原因を構成しているのは、小学四年生の時に叔父に強姦されたことが原因であるというようなことを、自ら誇っていたような節があるし、今はそうでなくしようという動きになっている風潮になってきているが、女が犯されたとしている22年前は、とてもそんな動きなどなく、強姦罪という、親告罪としての適用しかできなかったし、前述したような村社会の僻地だ、それすらも叶わず、現にその犯人という男はのうのうと家庭を作り、傍目には幸福な人生を歩んでいるという。

 それが我慢ならないという気違いの女は、俺に度々その男の殺害を教唆し、承伏するまでしつこく問い続けた。おそらく今でも、寄生する男の次々に、殺人の教唆を続けていることだろう。その限りでは現在進行形の紛れもない犯罪を俺はこうして書いているわけだ。そして、それが狂気の全ての原因とは言わないが、そうしたものに端を発する狂気が、長じて俺を現状のように欠落した存在に仕立て上げたわけだ。

 実際にこうしたことは非常に多くの件数が発生しているだろうし、発生しても親告罪であるが故に、伏せられている可能性が非常に高い。さらには、事をおおっぴらにはさせないために、発覚しても親戚一同で握りつぶそうとしていることなど日常茶飯事の様子だからだ。実際に、この気違いの女も、女の妹も、近所に住む白痴に、おおっぴらに風呂を覗かれ、近所の誼で不問に付す、という極めて遺憾な事態が起きているということも聞いている。この白痴などは、その罪から、本来断種させなければならないにもかかわらず、だ。

 また、そうした目にあって、それをひたすら封印するように仕向けられた人間は、幼少期に、大変な罪悪を行ったと誤解し、性的な虐待であればセックスに極端な忌避や拒絶をするようになるか、そうした異常な形での発端故に、極端に溺れて、誰彼構わずやりまくるようになるか、どちらかと思われる。件の気違い女は後者であったと思われるが、特に後者の心理のメカニズムは理解も共感もしがたいものがあるとは、個人的に強く思う。

 だが、そうした個人的な所感とは別に、悪がそれ自身の天然で突然変異的な存在であるか否かを選別する上では、この要素が本当に人格形成にどのような悪影響を与えるのか、は非常に重要だと思うし、仮に重要でないなら、この気違い女がもし強姦されなかったら、その人生は少しはましなものになっていたのかは大いに興味があるところだ。場合によっては、児童虐待は人間がそう言う淫乱症的な歪みへ導かないのかも知れない。そうでなければ純粋に、この気違い女の気質は、生まれ持った悪であるとも言える。
 
 つまり、人間の悪の純粋性の選別に、こうした要素が及ぼす影響の深度を知っておく必要があるんだ。そう言う狭義でも広義でも、俺にはこの虐待という奴が他人事には思えないし、ゆくゆくは迫らなければならないテーマだと言うことは承知している。

 そうだ。言ってしまえば、児童虐待が“あまり重要ではない”というよりは、現時点では生々しすぎるし、もっと悪そのものを知ってから戦わなければならない、真の敵なのだ。押さえ込む奴ら、実行する奴ら、何の裁きも受けない奴ら。俺を間接的にでも解体へ導いた、一番許し難い奴らが潜んでいる闇だ。俺の個人的な体験に関係しようとしまいと関係ない。そうしたことを容認しようとする奴は全て敵なんだよ。人を裏切る奴全ても。今に見てなよ。

 話をヴァクスに戻そう。そうした要素を意識的に織り込みすぎると、整合性や詩的な表現においてブレが生じるし、ひいては人間の暴力や悪、といった本質的に問題にさえ中途半端にしか迫れないのではないか、ということを言いたいんだよ。

 だがそれでも、主人公の殺し屋は、かつて美人局で名コンビを組んでいたと思い込んでいたストリッパーの女が、服役をきっかけに行方知れずになり、度々願い込まれていた彼女の父親殺害を実現しようと、過去をフラッシュバックさせながら、行く先々を血に染めてゆく。その女もまた、父親に幼少時から性的虐待を受け続けていたからなのだが。

 嫌でも“ある記憶”とオーバーラップせざるを得ないが、本にはその先が描かれている。女を見つけた殺し屋が、女の願いを果たそうと申し出るが、父親は既に死んでいたことを知らされる。そこで、殺し屋が取った最良の選択が描かれるが、俺は自らの末路を観ているかのような、それでいて冷静に写真を眺めているような、異常な感覚に襲われた。おそらくこの選択は、俺という個人だけでなく、当然の帰結と感じるだろう。それがこの冷たく、情熱的な物語に異様な説得力を与えている。その見え隠れする、後ろ向きの情熱がヴァクスが隠し持つ暗黒力と言えるかも知れない。ひょっとすると、本書がアイスバーグ・スリムに捧げられているように、ただ単にそうした著作に触れたことが、彼のアンダーグラウンドでザラついた感性に火をつけただけかも知れないが。

 とはいえ、一応はストリッパー(彼女の名前が原題の“shella”である)の父親の性的虐待だけが訴えたい部分なのだろうが、その意味では、そうした部分を必要以上にクローズアップするヴァクスの作風は、ノワールのそれに向きあるスタンスではないし、当然本書を読むまではそうした見方もしていなかったが、その衝動に対して抑制的であればあるほど、ヴァクスとしては小説の体裁、暗黒小説としての装飾と考えているのかも知れないが、それこそが、児童虐待とは別に、ノワールで描かれるべき悪(どうすることも出来ない、人間の、人間由来の悪)として鮮明になり、それが文章の美しさの冴えを加速しているという点は本当に素晴らしい。

 さらに、その効果を高めるためにか採用されている、断章のような記述は、愚直さから来る主人公の冷酷さを厭でも強調し、文章自体の詩的なリズムに貢献している。こんなに美しく非情な物語は、個人的には「死にゆく者への祈り」以来の衝撃と言える。

 だが、ヴァクスの作品で、そんなものは後にも先にもこれ一作きりなのは読まなくても分かるし、読んで確かめたくもない。その事実がただ惜しまれるが、久しぶりに、本について書くに当たっては、読んでよかったとは、本当に思うぜ。凶手 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 189-7))バットマン 究極の悪 (Hayakawa Novels)死にゆく者への祈り (ハヤカワ文庫 NV 266)ピンプ (BOOK PLUS)