only...GRINDHOUSE!!!!!

お前への想いを土に埋める。
お前との思い出を土に埋める。
この暑さだ、素早く土に還ってくれるだろう。
でもそれができないから、
何度心でそうしてもできていないから、
こうして書いている。


 そんな堂々巡りの思考、夏の憂鬱なのか、単なるフラッシュバックなのか、いずれにしてもこうした得体の知れないものに思考を支配されながらも、P2さんのご招待で、日をおいて、「デス・プルーフinグラインドハウス」&「プラネット・テラーinグラインドハウス」試写へ。

 いやこりゃ、凄い暑気払いだぜ。でも、これについては、実は多くを語ることが出来ない。批評を拒絶する作品なのだ。それはこの作品群が駄作というのではなく、そもそもの作られたコンセプトに端を発している。

 これは現代に再生させられた、70年代エログロ映画(グラインドハウス映画)への真摯なオマージュなのだ。言うまでもなくこうした映画に誰も批評を残していないし、これからもあまり真剣には語られないジャンルだと思う。

 最近、こうした映画で育った人間によって、その製作者や監督から得られた貴重な証言が、「キリング・フォー・カルチャー」などのように文献になっているが、そこで明らかなように、当時の製作者はあまり確信犯的に真剣に取り組んでいないのが大半で、要はショッキングな表現(を想起させるハッタリ)で客が入ればいいと思っていただけの傾向が強く、実際こうした態度で作られたものである以上、批評がされないのもある意味正しいと言える。

 でもそれが俺のこの作品へのスタンスではないし、製作者のやる気がないから作品としてまったく取るに足らないと言うのは間違いであり、結局人間など、“映画を鑑賞している”という大義名分でセックスと暴力が観たいだけなのであれば、ポルノ製作者のように、この姿勢は正しいし、グリフィスが予見した、“映画は所詮見せ物である”という本質に立ち返った、真っ当な姿勢であると言えるからだ。

 まして俺は、特にポルノ(ハードコア)なんかの「お前らはこれが観たいんだろ!」という、局部接写に代表される暴力的な演出に事実興奮するし、もったいぶったり思わせぶりなものはこれらの興行においては一切不要なものだと確信している。

 事実、こうしたグラインドハウス映画の製作者は、部分的にポルノ業界の人脈と重複していることが多い。

 従ってこの作品も、タランティーノのコンセプトに反して、アメリカ以外では、こうした映画特有の二本立て、三本立てというスタイルでも上映がされることはないようで、これはこれで本来のグラインドハウス映画に即した扱いを受けていないので、若干不本意ではあるが、二本に分割されることでディレクターズ・カットになろうとも、本質は変わっていないので、相変わらず俺の評価は下すことは出来ない。

 そして、この作品どもに関しては、かつて黙殺された偉大なる先駆者たちの作品に連なるのであれば、“評価を下さない”ということが、最大の賞賛になっているような気がするのだ。

 これらは総じてセックスと暴力しかなく、どれも過剰かつ露悪的に描かれているのは非常に好感が持てるし、フィルムの傷や音声のノイズという、当時の作品の空気感を演出するための表面的な“汚し”だけではなく、当時の空気感も表現することに努めている節がある点に、作り手たちの誠実さを感じる。

 くだらなさにおいてはロドリゲス編のゾンビ映画プラネット・テラー」が、退屈さにおいてはタランティーノ編の殺人鬼映画「デス・プルーフ」が、見事に「グラインドハウス映画とは何ぞや?」という問いに答えるものとして(逆説的な表現だが)、完成度が高い。

 特にタランティーノのそれは、リアルタイムでその退屈さと、ポスターや予告編に煽られて興奮した少年の失望まで表現しており、思い入れの深さを窺わせる。だが、最終的な評価は二本立てバージョンを観ないと、現時点では出来ねぇな。キリング・フォー・カルチャー―殺しの映像