内圧に応えた映画の覚え書き。

 ゆえに、これは浣腸ではない。下痢に近いかも知れない。循環が過剰になる、俺は下痢が好きだ。これは情報の代謝なのだ。


 パンドラさんのご招待で、松竹試写室へ、ソクーロフの新作「牡牛座」試写へ。晩年のレーニンを描いた作品だと言われなければ、普通の耄碌した人間の、晩年の日々を淡々と描いたものだと言われても、全く疑問を挟まない程、公人としてのレーニンを突き放して描写しているように感じられる。だがそれは、個人としての役目を終えたレーニンに対しては、限りなく等身大の人間として描かれている分、それは愛情と同義なのだ。その証拠に、かつて「太陽」昭和天皇を我々からは意外なほどアクティブにテンポよく描いていることが挙げられる。今回の、部屋や外出と言った一つ一つの些細なことがビッグイベントに感じられるくらいのゆったりとした演出は確信犯なのだ。耄碌していく彼の脳細胞と直結しているかのような、朦朧とした意識の世界へと誘われるのは、正しく監督の意図で、世界最大の革命をやってのけた偉人の脳に観客を直結させる必要があったのだ。それも、最盛期ではなく最もどん底の状態へ。それが観客が彼を身近に感じる決め手だから。しかし、ルックス的には特殊メイクのお陰もあって、レーニンスターリンも激似である。この点からも確認する価値のある作品。さらに、「人間は大人のままで生まれるべき〜」と言うようなセリフには感銘を受ける。俺も、子をなしたが故に、これまでの蓄積を反故にして、子のために自らも愚かに、幼稚になってきた人間を多数見てきた。故に、レーニンの子をなさない理由が理路整然と突き刺さる。


 アスミック・エースさんのご招待で、「チャプター27」試写へ。奇しくも「アメリカ vs ジョン・レノン」にご招待いただいたあとにタイミング良く見ることが出来るとは・・・と感慨に耽るのも無理がない、レノン暗殺犯の実録映画だ。でもそうした対比と本作の内容とは全く関係がないと言っていい。独りの人間の苦悩と葛藤に身を委ねればいいのだ。それにしても、俺がこの作品の企画を耳にしたのは二年ほど前になるだろうか。正直ジャレッド・レトに、マーク・チャップマンが務まるのか、ルックスだって全然違うのだから、そりゃ心配だった。でも次第に情報が明らかになり、ジャレッドの役者仕事の的確さに俺自身が魅了されるに従い、その不安は消え去った。そして今回目にしても、何も違和感のないリアリティを持ってチャップマンが観客の前に現れる。それだけに、モヤモヤととらえどころのない彼の苦悩は脳を浸食してくるし、モノローグという手法に、監督の確信犯的な演出が窺われるのだ。そう、内容は違うが「タクシードライバー」のあの手法。新しいところでは「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」のあれだ。しかし、類似云々と言うよりも、あくまでもショーン・ペンでしかなかった「リチャード〜」に対し、口調まで見事にトレースしているジャレッドの姿勢は対照的だし、それだけに犯罪者の思考や内面に迫るための、このモノローグという手法は有効だと、改めて思い知らされる。そして、その手法は、俺のように鬱屈している人間には、福音であり、劇物でもある。でも誰かを殺すような愚行をするよりは、そんな危険性のある奴は見ておいた方がいいぞ。


 十月の映画の日、一本目は「ヒルズ・ハブ・アイズ」へ。被爆を曲解とした映画として、二年もお蔵入りになってただけあって、これは「わらの犬」を超え、自衛の為の暴力の必要がこれでもか!と強調されている。核実験の放射能と、何世代にも渡る近親交配の結果、核実験やってた60年代から、奇形化もヒドイことになっており、イイ感じ。なぜイイ感じなのかは、奇形人間の出現以前に、差別された側は、差別されていたが故に、差別していた側の権利を奪うことができる(あるいは、奪う権利を持っている)ということを正面切って描いているからだ。これは「恐怖奇形人間」での奇形人間達の主張と同じで、劇中登場する奇形人間もこの点に若干言及している。まさに石井輝男的。この主張に対し、差別を受けてない奴(=差別している奴)に、反論する資格はない。襲われる家族(実は加害者としてのアメリカ文化の象徴)、襲う家族(実はアメリカ文化の被害者の象徴)と、異なる価値観と生存権を巡る激突という哲学的な展開はフランス人監督ならではだし、それを極めて暴力的に描くのも、それは必然かも知れない。極論ではあるがシニカルな一つのギャグとして、相手が誰であれ、自分達のテリトリーを侵している以上、自分達の好きなように揉躙する事は許される、というのは、同時に米憲法で保障された、「武装する権利」に通じるだろ?もう、「サランドラ」とかどうでもいいぜ。


 一観客として、「ヒルズ・ハブ・アイズ2」へ。前作同様、文明人は生き残るために良識をかなぐり捨て、モラルの通用しない相手に退行するために、奇形人間以上に、もっと凶暴にならなければならない。その己に戦慄しても、その凶暴な姿が掛け値なしに己のケダモノとしての、真実の姿なのだ。真実を恐れるな。知ったら、ただそこに没入あるのみ。だが、今回はいくらリベラルな兵士(しかも新兵)を出しても、結局は軍隊(=元々暴力的な存在)なので、前作ほどにテーマは薄い。貧弱なメガネ男が生半可ではない蹂躙を受けることで、真実の暴力性が全開になる(←自然回帰)のが、リメイク云々を超えて、前作の評価すべき点で、マイケル・ベリーマンやジョギリ(元々そんなものないが)を出すより、テーマ性が強調されたことがリメイクとして好感だったのに。


 しかし、間断なく奴から殴られていると、奴の名前が頭に明滅することから抵抗しようとひたすら躍起になっていた自分から、どんどん抵抗する気力がなくなって、やがて殴られるまま、明滅を避けようともしなくなっている自分に気付く。それは恐らく、腹は減っているが、エサを前にしても、電流が流れる怖れから一切興味を示さなくなった受験動物のメンタリティに近いだろうか。俺は立派に人間ではなくなったぞ。俺を殺そうとした女よ、これで満足か?太陽 [DVD]タクシードライバー スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]リチャード・ニクソン暗殺を企てた男 [DVD]サランドラ ツインパック 初回限定版 [DVD]わらの犬 [DVD]