怪物について、世界の終わりについての映画などを少々。

 俺はかつて、“ある異常な経験”をすることで、以来一瞬の安堵もなく、俺の中に皮膚一枚隔てて存在する、ドス黒い怪物と、その体内での成長を意識するようになった。やっと出てきた、個人的には敬愛するマーシーも、己の中の怪物に畏怖していて欲しいが、現段階ではろれつが回ってないので不明だ。

 俺の中のそれはちょうど、特殊漫画大統領・根本敬先生が初期作品「こじきびんぼう隊・あいつはエスパーの巻」(「豚小屋発犬小屋行き」所収)に描いた、エスパーの夢想する“ウンコ人間”の概念と非常に近い。

 “ウンコ人間”は、“村田藤吉”のヘソから頭だけ出した“きちがい隊員”にひたすら餌をやることで、彼は村田の体内隅々にウンコを蓄積していき、“村田藤吉”が“きちがい隊員”のウンコで破裂する寸前に、刃物で“村田藤吉”の皮をそーっと剥ぐと、“村田藤吉”のかたちに成長した、“ウンコ人間”が出現する、という寸法だった(ちなみに、漫画ではその試みは失敗する)。

 俺の場合は、刃物を使わずとも、いとも簡単にそいつは姿を現すだろう。それは、物ですらないのが恐ろしい。要するに、おそらく、怒りによって簡単に俺の皮膚は剥ぎ取られ、怪物は姿を現してしまうだろうから。

 以来俺は、怒りの感情に支配されることを極度に恐れるようになった。怒らなくなった。怒れなくなった。怒りを誘発するような物事からは極力距離を置くようになった。その可能性を持つものは何であれ、俺からは遮断している。中途半端な怒りですら、怪物は全身を現し、その生みの親であるはずの、俺に“ある異常な経験”をもたらした対象であろうとなかろうと、一切のコントロールもなく、そこにあるすべてものに、ただ死や暴力をまき散らすであろうことは確実だからだ。さすが、俺のボディ・スナッチャーなだけのことはある。俺は怪物の思考も汲み取れるようになっている。

 というのも、本来なら激しい感情に見舞われるであろうことが客観的にでも推察される“ある異常な経験”に対し、俺は何の感情も表出しなかったからだ。出せなかったのでもない。出さなかったのでもない。ただ、出てこなかった。それは射精の寸止めに似ているかも知れない。そうなぞらえるならば、以来、一度も射精をしていないが故に、俺にとっての射精(怪物の出現)がどういう惨事を引き起こすか、とても恐ろしい。あれほど強い感情が出る場はないはずと推察される“ある異常な経験”で、感情がどこかにロストされることなど考えられないからだ。

 だから現状もそうした忌避は続いているが、ジム・トンプスンの諸作(特に、「おれの中の殺し屋」、「残酷な夜」、「アフター・ダーク」、そして最高傑作「死ぬほどいい女」)などを読むと、登場人物はすべて俺のような状態なので、とても安堵する。恐らくはある精神疾患を抱えている人間が発作に見舞われるときに、特定の色や現象に触れることで、その発作が和らぐ、と根拠なく信じ込んでいるように。

 その結果、仕事で書くこともあまりなくなった。これはやりたくないわけじゃなく、むしろその逆で、俺は書き続けていなければ死ぬのではないか?というような強迫観念に取り憑かれているのだが、周知のように微々たるものだ。出版物や各媒体への執筆は、その完成においても、収入においても長期的な展望を有する物であることは言うまでもないし、重々承知している。ただ、遅きにせよ発生するはずの賃金が、発生しない場合がある。いや、その場合は非常に多い。

 その結果、正当な賃金を求めることになるのだが、その微々たる賃金に対し払う闘争のエネルギーが、俺の恐れる怒りを誘発するばかりか、執筆の労力に見合わない逆転を引き起こすからだ。必要以上の金が欲しいわけではないが、労働の対価は最低限なければ。書く仕事をしているのか、未払いのギャラの取り立てをしているのか解らなくなる時は良くあり、書物として形になるのは嬉しいが、俺はもうそれに疲れた。そんな時に怪物に出てきてもらっては困るし、俺は、俺の望まぬかたちに成長してしまった俺の正体などとは向き合いたくはない。

 だから、何もかも止めた。諦めた。捨てた。怪物が俺とともに終わるのを見届けるつもりだ。とどめを刺す、などと能動的なものではない。おそらくこの怪物を殺しきることは不可能だろうが、止めておくことはできると考え、眠らせておく。同時に俺自身も悪夢に悩まされながらも、寝続けるしかない。寝ている限り怪物は、「フランケンシュタイン」の“怪物”のように、生みの親に会いに行こうとはしないだろう。俺も会いたくない、会いたくないからそうしている、と言うことにしておく。

 でもね、いつ仕事が来てもいいように、映画は観さしてもらってます。この現況は、感謝に堪えません。だから何かあれば報いる、それが人の道。


 ワーナー・ブラザーズさんにご招待いただき、「最高の人生の見つけ方」試写へ。ジャック・ニコルソンモーガン・フリーマン。それぞれのキャラが完全にアテ書きされていることが分かるシナリオである。これはそれぞれのキャラクターに観客が求めるものを的確に提示できるという、大きなメリットのある手法だが、誰にでも通用するとは限らないし、それぞれのキャラクターが深く世界中に認知されていればこそ実現できるものだ。しかもそれぞれ、ちょっとだけキャラを裏切ってくれるというサービスもあり、ニコルソン出演作らしからぬウェルメイドな出来になっている。その背景にはそれぞれが抱えたシビアな“死”との向き合い方があるのだが、下手に逃げを打たなかった分、逆にロマンティックになってしまったのは、ギャグとして受け止められればいいが、そう解釈できない観客もいるであろうことは想像に難くない。とはいえ、結末に至る過程こそが重要な映画でもあるので、そこが楽しめれば一切問題なし。


 20世紀フォックスさんにご招待いただき、「ハプニング」試写へ。前作「レディ・イン・ザ・ウォ−ター」によって多くの観客を激怒させてしまったという、M・ナイト・シャマランの新作だが、ハプニングバーのような思わせぶりなノリはない。ちゃんと本番は見せてくれるので、個人的には起死回生はなったといえる作品であった。かねてからヒッチコックの「鳥」をフェイバリットとしている監督は、その手法を「サイン」に丸々持ち込むことで、一回しか通用しない意外性を表現する事ができていたと思う。加えてギャグにしか見えない、登場人物の行動や言動が、カルト化するには充分な資質を備えていた。それでいて、今回もそうした“世界の終わり”を扱っていながらも、観客を物語に引き込む力の強さにおいて二番煎じとなっていないのは、従来抑え目だった残酷描写の全面解禁に踏み込んだところが大きい。その原因はともかく、“理不尽で残酷な死”の連鎖が、そうした直接的な描写の多用で説得力を増している事は間違いがない。やはりもっと重厚に“世界の終わり”を描いているであろう、フェルナンド・メイレレス監督の超期待作「ブラインドネス」とも、比較を待ちたいところだ。


 一観客として「ミスト」へ。フランク・ダラボンが単なるスティーブン・キングの感動モノ御用達の監督だと思っている人間は、観てショック死すりゃいいんだ。というのも、キング作品で言えば「地獄のデビルトラック」みたいな、カタストロフィ映画のパイオニアジョージ・A・ロメロ作品で言えば「ザ・クレイジーズ」のような、圧倒的な終末観があるし、「漂流教室」やクトゥルー・ライクな怪獣大暴れの最高の映画なのだ。しかも単なる怪獣映画に終わらない、人間の醜悪さの噴出による、悪意あふれる壮絶なラスト。ここにはやはりマジ泣きできる子役を配置するのは必然であり、その起用においてこの映画は成功しているともいえる。このマジ泣き子役は、「ダークナイト」でもゴードン警察本部長の息子でやっぱ泣くんで、そこも注目。原作とオチは違うが、俺は思わず射精しそうになった映画版を支持したい。「ミスティック・リバー」のオロオロするババア、マーシャ・ゲイ=ハーデンの豹変ぶりや、“スチュアート大佐”兼“死神”という素晴らしすぎる肩書きを持つ、ビル・サドラーのお蔭でB級テイストも高くなり、全体の作り込みにも予算が回せたと見え、確実に「ドリームキャッチャー」は超えた!


 P2さんにご招待いただき、「奇跡のシンフォニー」試写へ。子役は子役として価値のあるうちたくさん出ておくのが得策。それは特に男子の欧米人はごつくなるのが早いので、いい作品にめぐり合えるとか、その子に向けたいいシナリオをどれだけ瞬発的に用意できるかが、俳優としての、その子のキャリアにかかる。その意味ではこの主役フレディ・ハイモアは、バラエティに富んだいい仕事にめぐり合えて、その後のルックスの変貌は未知数だが、幸先はいい。天才肌のミュージシャンの両親との間に生まれながらも、周囲の反対のため男女は引き離され、生まれた赤ん坊は孤児としての処遇を得る。このカップルが「M:i-3」におけるいずれも“トムの部下”ジョナサン・リース=マイヤーズとケリー・ラッセルというのは意味があるのか無いのか不明だが、とにかく彼らから継いだ音感は彼を音楽の世界に導き、それは彼を探していた両親との再会にも発展する。メロドラマ的な展開はさておき、音感の鋭さを視覚的に表現する事にかけての工夫が徹底されており、まさに観て体験する映画の醍醐味である。そして、子役を悲劇に突き落とす鍵がまたもビル・サドラーであることも注目。ロビン・ウィリアムズは逆で、実は彼の救済に一役買うことで鈍く光っている事もミスリードしてはならない。


 一観客として「ファクトリー・ガール」へ。映画的には「アイム・ノット・ゼア」にも出てきたイーディ・セジウィックの伝記。もう単なるワガママ・キチガイ・金目当てと三拍子揃った俗物女の、ドラッグ塗れの短い人生を、これでもかという自己憐憫とナルシズムで乗り切る、行き当たりばったり映画のネタが尽きた映画界の証明。別にディラン役のヘイデン・クリステンセンと本番やっていようが一向に構わないし、後半働かず遊び呆けて運が尽きた死に掛けの末路に聞こえてくる、自称アート女の周囲からの啜り泣きがただ不快だったが、アンディ・ウォーホルを演じていたガイ・ピアースの、ウォーホルのキモさ重視のアプローチは、「バスキア」のデヴィッド・ボウイとは対極で良かった。個人的に一押しウォーホルは、誰がなんと言おうが「ドアーズ」のクリスピン・グローバーであることは揺るぎがないが、ちょっと良かったという意味で。シエナ・ミラーには、「G.I.JOE」のコブラ側女幹部・バロネス役にしか正直言って期待していない。TVアニメ放送時、スネークアイ(顔の出ないキャラながら、かの「ダース・モール」こと、演ずるはレイ・パークとの事!こりゃストームシャドウ役のイ・ビョンホンよか期待できる!)と一緒にフィギュア持ってたからな。おれの中の殺し屋 (扶桑社ミステリー)残酷な夜 (扶桑社ミステリー)アフター・ダーク死ぬほどいい女フランケンシュタイン (創元推理文庫 (532‐1))SF/ボディ・スナッチャー [DVD]ボディ・スナッチャー/恐怖の街 [DVD]ボディ・スナッチャーズ [DVD]インベージョン 特別版 [DVD]最高の人生の見つけ方 [DVD]レディ・イン・ザ・ウォーター 特別版 [DVD]鳥 【初回生産限定】   [DVD]サイン ― コレクターズ・エディション [DVD]ミスト コレクターズ・エディション [DVD]地獄のデビル・トラック [DVD]ザ・クレイジーズ [DVD]漂流教室 1 (ビッグコミックススペシャル)ミスティック・リバー [DVD]ダイ・ハード2 (ベストヒット・セレクション) [DVD]ビルとテッドの地獄旅行 [DVD]ドリームキャッチャー 特別版 [DVD]M:i-3 ミッション:インポッシブル3 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]チャオ!マンハッタン [DVD]アイム・ノット・ゼア [DVD]バスキア [DVD]ドアーズ:スペシャル・エディション  (ユニバーサル・ザ・ベスト第8弾) [DVD]G.I. Joe Volumes 7-9 [VHS] [Import]