「素面童貞宣言」、および映画評。

 大学時代、念願の童貞を捨てて、やりまくっていたK君が、恥ずかしそうに俺に語った事がある。「俺はまだ童貞だ」と。別に童貞自体恥ずべき事ではない上に、現にやりまくっている彼が童貞というのは不審だったんで詳細を聞くと、彼は生至上主義というか、ゴムを着けてしている限り、肉の直接のふれあいがない限りは、相手が素人だろうが玄人だろうが、セックスをしたこと自体としてカウントできないと考えていたのだった。
 確かにそう言われればそのとおりで、律儀な奴であるし、ましてやそこに、“セーフ”なんてつけて呼んでる時点で、愛し合うセックスではないということについては俺も同感だ。そもそも愛があるなら、安全なセックスなどない。危険があったとしてもそれが冒せないのであれば、そこに愛はないわけだし、単に危険なことだけに身を投げ打つのは、そいつの人格障害のなせる業だ。さらに、そこで事に及んだところで、心と体ギリギリに愛し合うことが出来ないのは目に見えている。単なる挿入でしかないし、前回同様、童貞のメンタリティで俺がそれを考えているなら、生命をすり減らす事もできず、ただ挿入だけなら、入れるのも腰を振るのも面倒だな。
 ただ、これは童貞の思考というよりは、俺の残り時間が以前より少ないせいかもしれない。本能が、俺にそう考えさせているかも知れないのだ。
 そもそもこうした思索に踏み込んでしまったのは、前回書いたとおり、酒を断って酒を飲み始める前に戻った事がきっかけだ。“酒を飲み始める前=童貞”だったことから、童貞のメンタリティに戻ってしまったのではないかという危惧を抱いたことからである。便宜上“危惧”と書いたが、もしそうだったとしても俺はその状態に危機感を抱いているわけではなく、むしろ歓迎すべき状態なのである。
 なぜならこの状態は、俺に埋め込まれた、愛に成就できなかった単なるセックスの記憶を、ことごとくリセットしてくれる事が期待できるからだ。俺が愛と錯覚したものを知る前の状態へ戻してくれるからだ。そしてこれから感じる全ては、初めての知覚として感じられるように戻れた(あるいは、今もう戻れている)かも知れないからだ。とはいえ、死ぬまでにそんな真実に出会える瞬間が今後訪れるかどうかは別の話だ。腹立たしいが、「青い鳥」(当然、メーテルリンクの方だ)に例えられるような結末で自分を納得させながら死んでいくような気がしている。
 そこで考えてみると、俺はつくづく、セックス自体が酒に支配されていた事にも気づく。もちろん実際は飲まないでセックスしている場合の方が多いしにしても、その関係に陥る初回時は、どの相手の場合も全て酒を飲んでいたわけで、そういう意味では俺は元々前回みたいに“戻った”とか“戻らない”とかの次元の話ではなく、既に“素人童貞”ならぬ“素面童貞”で、そうであったことに単に気づかなかっただけ、とも言えるわけだ。
 古来から「湯ボボ、酒マラ」というように、それがセックスに適している状態であることには誰も異論を差し挟まないだろうが、結局童貞か、そうでないかは、先述のK君の例でも分かるように、本人の思い入れ次第で、客観的な判断基準は極めて曖昧だという事だ。ときに、俺は俺が今回の思索で“素面童貞”との認識を強めている以上、勝手に俺自身がそう決めただけだとも思うが、俺は童貞に戻ってしまったに違いない。そんな俺に、果たしてこれまでそう錯覚していた以上の真実はもたらされるのだろうか。「野望の王国」のラストにおける、橘征五郎の独白のような心境がここにある。


 ワーナー・ブラザーズさんにご招待いただき、「スカイ・クロラ」試写へ。本作は押井守作品でありながらSFではない。どっちかというとファンタジーかも知れない。それでも壮絶な戦いの映画である。だが、戦いの映画だからこそロマンに満ちている。ロマンに貫かれているから、物語は時間や物理法則などを超越する。そもそも子供の話。子供が子供を産む世界。実に「わたしは真悟」的な奇跡が世界に遍く行き渡った、もはや、奇跡が奇跡でない世界。それがファンタジー。だから終わらない子ども。それは「1999年の夏休み」のような円環世界。そこに男女があることで、より生臭く、生きる意味の希求と、互いを求める切実さが浮き上がる。俺に飛行機の知識は特にないが、恐らく航空力学的には無理なデザインの戦闘機も意図的に織り交ぜて描写しており、それが逆にドッグファイトの描写に、何ともいえない凄みや不気味さを与えている。それがより、物語の不条理感を強調するのだ。でも決して難解ではなかったのは、俺がそれだけ「1999年の夏休み」を愛しているからなのだろうか。ちなみに少女マンガ的な絵柄は俺の感情移入を阻むので、原典ながら、「トーマの心臓」の事はここでは触れない。


 スタイルジャムさんにご招待いただき、「たみおのしあわせ」試写へ。岩松了監督は、映画作家としては寡作なので、事前に収集した情報では、もちろんコメディなのは分かっているけど、キャスト的にはかなり込み入ったアンサンブルなので、どういう感触の笑いを醸し出すのか未知数だった。しかし実際に見てみればなんとも奇妙な方向に話が曲がっていく事から来る、シュール極まりない笑いの世界だった。設定に必要以上にリアリティを持たせず、抜くところは抜く。それでいて不自然に見えないからこそのシュールといえる。ラストは笑いではなく衝撃。このシーンを主役の親子を演じる原田芳雄オダギリジョーがやることにこそ、監督は意味を持たせたかったのかもしれないが、俺は久々に見る原田貴和子だけで、もう本気で大満足。これは個人的には、まさに別の意味で衝撃に近い。「彼のオートバイ、彼女の島」を聴きながら、「SHE'S」で顔の皮が剥がれるまで洗顔したくなった。


 ワーナー・ブラザーズさんにご招待いただき、「ゲット・スマート」試写へ。一連のアメリカン・コメディの脇役として認知されながらも、長らく陽の目を見なかったスティーブ・カレル。しかし向こうの芸人には、脇をこなしていれば年功序列のようなチャンスが一度は巡って来るようになっているらしく、ゆえに、持ち前の神経質そうで抜けていて、影の薄さゆえに軽く扱われて笑いをとるキャラを生かし、「40歳の童貞男」のチャンスを逃さず“時の人”となったわけだ。しかも「リトル・ミス・サンシャイン」で演技もちゃんと出来る芸人と知らしめたお蔭で、芸人として集金力も身に着けたことが証明された。それが本作だ。なぜなら本来は脇に回ってるロック様を主役にしてもいい程の大作スパイ映画なのだ。それでも往年の「それ行けスマート」のリメイクでもあるところが、企画の手堅さと、カレルにとって芸人路線の試金石ともなる作品である。一応ヒーロー物なので、カレル自身の“影の薄さ”と、“押しの弱さ”が最後まで徹底できているとはいえないが、そこは派手なアクションと、アラン・アーキンテレンス・スタンプ、欲情できるアン・ハサウェイといった脇の豪華さに支えられ、大作としての見栄えは充分である。少なくとも、カレルの売りであるキャラを知らしめるには決め手となるだろう。ちなみに「ボラット」のアズマットも出てるぞ。


 一観客として「P2」へ。制作・脚本がアレクサンドル・アジャなので。でも監督作ではなく本腰を入れていないせいか、都会の高層ビル地下駐車場という限定空間なので、「ヒルズ・ハブ・アイズ」とは対極の設定である。主役のレイチェル・ニコルズが身近な美しさを持っているため、それだけでも見世物価値は十分だが、クリスマス休暇直前に、そのビルのオフィスに勤務する彼女は、毎日彼女を眺めていた駐車場のキチガイ警備員に拉致監禁されてしまうのだ。別にこの程度なら監禁ものは「ソウ」に始まり量産されているので新味はないが、日常的な光景が突然自分の監禁装置に転換するのが新機軸ではある。熟知しているはずの物や人が、あくまで錯覚だった事を思い知らされる絶望。さらにキチガイ警備員は、酒で気を大きくして彼女に言い寄った上司を、前もって監禁してくれていて、彼女の前で拷問&処刑を執行してくれるのだ。何という親切な奴!このくだりの内臓ブチ撒きシーン(人命軽視のためらいのなさ)が分かりやすいアジャらしさで興奮するが、後は一般的には過激でも、サスペンスとして収束してしまうのは残念。でもキチガイにウェス・ベントレーを起用したあたりは評価したい。この俳優は「ゴーストライダー」の時も思ったが、「スパイダーマン」の主役を蹴って正解だったよ。今後も悪役でひとつ。野望の王国完全版 1 (ニチブンコミックス)1999年の夏休み [DVD]わたしは真悟 1 (ビッグコミックス)彼のオートバイ、彼女の島 [DVD]40歳の童貞男 無修正完全版 (ユニバーサル・セレクション2008年第6弾) 【初回生産限定】 [DVD] [DVD] (2008); ジャド・アパトーリトル・ミス・サンシャイン [DVD]それ行けスマート/0086笑いの番号 [VHS]ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習<完全ノーカット版>MANKINI水着付BOX(初回生産限定) [DVD]ヒルズ・ハブ・アイズ [DVD]SAW ソウ DTSエディション [DVD]ゴーストライダー デラックス・コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]スパイダーマンTM トリロジーBOX(4枚組) (期間限定出荷) [DVD]