幻覚痛にも似た、微かな心の動き、予感。

 もう既に俺の血肉となるほど過去の話で、ゆえに揺るぎのない事実として穿り返すが、理不尽な嫉妬から、俺の許を自ら出奔した女を買い取れ、さもないと俺が、「死ぬことになる」と脅迫を繰り返していた“狂鬼人間”が、とある罪科で昨年逮捕されていることはニュースから既に知っていた。これが、全く強請る落ち度も関係もない俺を、度々「男のクズ!」、「男のカス!」、「ウジ虫め!」との捨て台詞で脅迫していた、“男の中の男(しつこいが狂鬼人間)”であることは間違いがなく、当時証拠として録音したテープで名乗っている名や居住地域ともに一致している。通報に伴う周囲への迷惑を慮り、結局当時は事件とはしていないが、それだけに今後も何が起きるとも限らず、テープは多数複製の上、保管は続けている。
 しかし、そんなことは最早どうでもよく、過ぎた話として言及したくもないのだが、結局どっちが正気でどっちが正義で、詰まるところどっちが“男”であるのかについてを、世間が判断すべき好材料として記した。俺個人は男でも女でも、ウジ虫だって構わないが、世間的にはどちらが“卑怯者”であるのか、ということだ。恐らく、判断してもらう必要もないほど明白なんだろうが、女を含む、狂人が2名介在していた話であるだけに、それまで俺としても正気には自信を持っていたが、さすがに以来、自分の中で定義していた、正しさや物事の道理について、少々バランス感覚を欠いてしまったからである。
 正味な話が、その後は自信だって失って疑心暗鬼に陥り、欠落した人間として、心身ともに病み、通院を繰り返す生活も余儀なくされている。件の刑事事件自体は、俺とは違い物理的、肉体的に被害を受けた人のいる話なので、起きた事は悲しいが、以後、この抱える欠落に、低周波治療器のような微弱な脈動が起こり続けているのは確かで、それは神経が遮断されてしまった人間の無感覚が、そうした幻覚痛から回復に向かっていく場合があるように、俺にも欠落が補われる前兆のようにも思えるのだ。根拠のない予感に過ぎないけどな。


 そんな予感を抱えて見つめた、世界の終末等の与太話。


 一観客として「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」へ。開拓者だけにロメロ監督のリビング・デッド世界に限界はない。終末を描きながら進化を続ける革新性はただ頭が下がる。その今日的な視点はテクノロジー導入に留まらず、世代としての本音は年配大学教授に語らせながら、本筋は若者の語り口で進めるという感情面の若さまで披露しているのだから、後の世代が未だ太刀打ちできないのは頷ける。しかも一見POV映画に見せかけて、画角の狭さと客観性の欠如、以上に伴う避けようのない結末という、POV特有の限界を、高画質カメラ2台の導入により完全克服しているからさすが。このスタイルのおかげで、物語的には「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」に似た、終末の始まりがじっくり楽しめる。だから過去の作品共通に、マイノリティーへの共感的な視点も、非常時だけに温かい。前作は“ゾンビに驚くゾンビ”という画期的な描写を創造したが、今回は学生映画クルーが撮影中の作品と同じ展開に巻き込まれるなどギャグも多い。元祖として「サンゲリア」を意識したか、前作から“水”と“生ける死者”の新しい関係を築いたロメロだから描けた、死者の新廃棄方法も斬新で美しい。しかし、「ドーン・オブ・ザ・デッド」、「ランド・オブ・ザ・デッド」を制した怪優、ボイド・バンクスは次回作でも要注意だな。


 一観客として「TOKYO JOE マフィアを売った男」へ。シカゴのマフィアの一員として働き、賭博分野でのシノギに貢献しながら、組織に消されかけた復讐に、FBIの協力者として証人保護プログラムを受けながら告発した日系人の話…らしい。事実なのは分かるが、ドキュメントするだけの素材が揃ってない気がする。対象となる人物が既に故人の時点から製作が始まっているので仕方はないが、事実関係の明瞭さに欠け、ヤクザ特有のハッタリの効いた俺節がないのだ。要するに出来事が後追いや伝聞で並べられているだけなんで、扱われている事実が刺激的でも、インパクトを与えるだけの緩急がなく、描き方が客観的過ぎるのだ。一人の人間の生き様をドキュメンタリーで追うなら、対象が故人であっても「非現実の王国で」くらいは徹底して欲しい。そこには少なからず作り手の思い入れがないと、ニュースと変わらないし。だから、「へぇ、そういう人がいたんだ」という程度のものであった。主役に華のあるキャストを持ってくるのは難しいだろうが、これは虚実入り乱れたドラマとして味わいたい素材で、その点、完全ではなくても「アメリカン・ギャングスター」などは、イイ具合に敢えて虚実を盛り込んで成功している。延び延びになってる「東京アンダーワールド」代わりに、スコセッシ辺りで劇映画化して欲しい。


 一観客として「その男ヴァン・ダム」へ。単純に、変型判チラシでの木村奈保子氏による寄稿は快挙だ。しかしコメントに山田五郎氏を起用した担当者の見識は疑う。海外では“最も動きの美しいアクション・スター”と言われているのに、この人はヴァン・ダムに何の思い入れもないので“カッコ悪い”とか苦し紛れに言っている。ちなみに俺は本でヴァン・ダムについて書くより前から、全出演作を観ているが、ヴァン・ダムをカッコ悪いと思って観た事は一度もないぞ。むしろよく比較されるスティーブン・セガールの方がワキが甘いし、作品の質もバラつきがある。何が言いたいかというと、映画自体はそれだけヴァン・ダム愛が深いほど楽しめるし、思い入れがない人には無意味ってこと。設定は一応篭城ものの体裁なので、強盗の主犯がジョン・カザール似だが、「狼たちの午後」ってよか「キリング・ゾーイ」だ。つまりジャン=ユーグ・アングラードも入っている。しかもアングラードとは「マキシマム・リスク」で共演しているので、その辺もネタなのか?と勘繰ったりもする。なら「キリング〜」程じゃなくていいから、現実としたい部分には相応に血の量が欲しかった。犯人が撃たれて流血しないと、冒頭製作会社のクレジットに細工したこだわりも、ヴァン・ダムが最後に直面する苦い現実にも重みがないぜ。


 20世紀フォックスさんにご招待いただき、「フェイクシティ ある男のルール」試写へ。邦題の方が原題より内容と本質を言い表していることを評価する。ジェイムズ・エルロイが小説以外で映画のプロットを提供するのは、日本では未公開になってしまった、カート・ラッセル主演の「ダーク・スティール」が走りだが、舞台がロス暴動前夜なので、警察内部の腐敗というテーマが霞んでいた。しかしその仕事と「トレーニング・デイ」の脚本も経た監督による本作は、舞台が現代なだけに、より組織そのものの腐敗に肉薄している。また「トレーニング〜」でデンゼル・ワシントンがイイ人脱却にまあまあ成果を上げたことから、「ラストキング・オブ・スコットランド」以来、フォレスト・ウィテカーも再度癒し路線から脱却を図っているが、デンゼルと違い、善悪を割り切れない複雑な役なので、一概に脱却と言えない節はあっても、物語を俯瞰すると彼の起用は大成功だ。この人間臭さのアンサンブルは、他のキャストにも言えており、例えば「スチュアート・リトル」のお父さんに、その風貌から違和感を感じていた俺には、今回は膝を打つものがあった。その辺に脚本カート・ウィマーが生きてるか、本作にSF的ギミックがないんで分かり辛いが、エルロイ風にさりげなく、かつ量より質で攻める暴力描写はその功績だろう。


 ワーナー・ブラザーズさんにご招待いただき、「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」試写へ。監督と主演、約十年目の再コラボは、「ファイト・クラブ」の再開ではない。哲学から劇的な社会変革を目指す試みに挫折したというには話の次元が違うし、両者が大人になり、互いの円熟を感じさせるテーマの深化したものだった。それは端的には、“無理せず人生を生き切る”ことだし、本作までにどちらも父親になったのも無縁ではない。父の不在が描かれた「ファイト〜」が作られたのは、彼らに“息子”の視点と共感があったからだし、そもそも不満や孤独が哲学を生じさせ、変革を志向させた(物語を素材に映画を作った)のだ。しかし二人とも家族という小社会を作る側に回ったので、もう哲学は不要になったらしい。特にフィンチャーは「ファイト〜」以降の全作で家族に言及があるので、その志向は覗えたしな。だから、人生を家族との能動的な関わりの中で物語として生きようという明確な意志がある。そのため、若干の戦争描写はあっても、生き残るための露骨な闘争は描かれないが、テーマを絞る上での意図的なものだろう。最終的に浮かぶのは、「出会い、好きなこと(物)、役目を大切に。だから人生を大切に。」という、意外にも優しい肯定だ。かつて俺が、道を踏み外した女に捧げた、最後の言葉と同じに。ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド コレクターズBOX [DVD]サンゲリア [DVD]ドーン・オブ・ザ・デッド ディレクターズ・カット [DVD]ランド・オブ・ザ・デッド [DVD]非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎 デラックス版 [DVD]アメリカン・ギャングスター コレクターズBOX (初回限定生産) [DVD]東京アンダーワールド (角川文庫)狼たちの午後 [DVD]キリング・ゾーイ?破滅への銃弾?(字幕版 [VHS]マキシマム・リスク [DVD]ダーク・スティール [DVD]トレーニング・デイ 特別版 [DVD]ラストキング・オブ・スコットランド (特別編) [DVD]スチュアート・リトル [DVD]ファイト・クラブ 新生アルティメット・エディション [DVD]パニック・ルーム [DVD]ゾディアック 特別版 [DVD]