内側を探って転写できる事、他。

 折に触れ、色々無駄な事を書き連ねているように見えるのも、実はあまり主張しているのでも、誰かに語りかけたいからでもない。俺は俺の思考を可能な限り、“こちら側”に転写しているだけに過ぎない。主張や語りかけは答えを外に求めようとする行為なので、それは“■”になったシンゴが経験したような、タンカーのコンピュータの誤作動程度の返答(「わたしは真悟」では、それを“風”と表現していた)しか得られない、寒々しい行動であろうし、また顔を見せない人間による返答も、それが血の通わない、誹謗中傷の類の言葉である限りは、所詮同質のものとしか感じられないからだ。
 そもそも自分が、劣った自分自身を高めるために、コンプレックスから様々な蓄積をしているんであれば、答えは蓄積の結果を内側に探せばいいので、内側に見つけたものを外に出して、形を整えていき、その完成形を客観的に眺めれば、それこそが自分にとっての答えになるんじゃないだろうか?という気もしている。そして、当然ながらその過程も、隠し立てしない事が重要だ。
 小学校の時、トイレのドアを閉めてウンコするのを極端に怖がり、当時“学校でのウンコ”というのも一種のタブーであるにも拘らず、ドアを全開放しないと排便できない低脳児が別の学年にいたが、そいつがウンコをする度に俺の学年まで大騒ぎをし始め、男子トイレはいつも黒山の人だかりとなっていた(ちなみに、ドアを閉めようとするとそいつは泣く)。そいつが教えてくれたのは、センズリも見世物程度にはなるって事。
 従って、ここに書く全ては、まずは自分が自分にとっての答えを探す過程に役に立ちそうな事を、根拠はなくとも自分用に書き留め、並べ続けていくための場として用意している。たまたまそれが俺の思考の転写として表示され、かつ全方向に晒されており、誰かがそれを見て楽しんでくれるなら、それは非常にありがたい事だが、あまりそれを意識しすぎると、本来の自分にとっての答えを探す思惟に専念できない(客観的にも“答え”の生成されていく過程が見えない)可能性があるんで、そう考えようとしている部分もある。
 それを「どんだけ“自分好き”の“自分探し”だよ?」(大意)と、現実の人間から誹謗中傷ではなく、単純に問いとして聞かれた事もあったが、そんな事言われても、食い物は細胞を入れ替えているはずなのに、俺は俺で居たいかどうか?などの意向も無視して、新しくなる細胞も寄り集まって、やがて知らないうちに俺を構成してしまうからな。
 結局のところ、俺は俺でしか居られないし、俺は俺を辞める事ができない。ここに存在する意識は紛れもなく俺で、俺以外になる事ができない俺は居直って、俺を研究し、プロセスを細切れにパッケージし、売れる売れないは別に陳列する。俺の細胞が、俺を俺でなくして行ってくれて、俺が俺を辞める機会を与えてくれるなら、こんな事は多分していないが、今の俺にはそれしか出来る事がないから。“自分探し”でも、“自分好き”でも何でもねぇよ。自分が自分でしかなく、その外側にも、この意識を通して知覚される世界しか広がっていない。つまり俺の外側には何も存在しないから探るだけなんだ、本当はね。


 一観客として「新宿インシデント」へ。「ドラゴン・キングダム」の不満が負の方向に出たか?と思わせるほどダークな、ジャッキー版「スカーフェイス」であり、黒社会ものという意味では、裏「奇跡/ミラクル」とも言える。シリアスな話のために深刻な表情が多く、そのせいでもうジャッキーが相当老けている事も分かる。だから、同郷の女をヤクザに寝取られたジャッキーが、南米系娼婦を買っても、本来はジャッキーがファックシーンを演じる事自体に驚くべきなんだろう。しかしジャッキーは昔からプライベートでその手の噂には事欠かない人なんで、特に驚く事はない。ただ、そのセックスが非常に淡白なマグロ状態で、娼婦のリードに任せた騎乗位という点に、“風俗慣れ”というか、妙な説得力があり、しかも襖一枚隔て、ダニエル・ウーは奥で懸命に励んでいるという異常なシーンは堪能できる。でも冷静に考えると、「アクシデンタル・スパイ」なんかで、チンコを隠しながらフルチン寸前で戦ってきた(このシーンの凄さは、目的が“敵に勝つ”事でなく、断固として“チンコを隠し続ける”事にある)、ジャッキー本人にしてみれば、まるでAVに出演するような覚悟だったのかも知れない。ちなみに90年代が舞台の割には、遠景・近景含めロケは、現代の新宿でしか行われていない事が分かるが、セットでの若干の当時の再現や、その人種状況を無理に記号化して投入する事で、ジャッキー映画的には割と風俗考証が行き届いていると言うべきだろう。同じく日本ロケしたはずの「デッドヒート」のピンポン玉大よりもパチンコ玉がリアルになって、描写も具体的になったのは、その間に「CRジャッキー・チェン」なんていう、犯罪としか思えないものが出回ってしまった(自身で開発に携わった)のと無縁ではないだろう。そんな辛口の物語を締めるのは「毒虫小僧」みたいなエンディングで、当然NG集もなし。つまり、「スカーフェイス」よりも汚辱に満ちた幕切れは、ジャッキー自身があまり作品を愛していない表れかもな。しかし、ダニエルは生まれも育ちもアメリカで、ロック的な洗礼は日本人より深く受けているはずなのに、中盤披露する、桁違いに狂ったロック観のチンピラファッションはいかがなものか?というのは大いに気になる。本人は“ビジュアル系”と思っているようだが、あんなものはロック史の連続性が完全無視された日本の恥部なんで、彼が“やさぐれた”のではなく、単に“気が狂った”様にしか見えないのが心残りだ。まぁ、ある意味それが中身のないバンドブームの正体だったりもするわけで、本人達はどっちでもいいんだろうけど、作品は部分的には日本の90年代文化を暴いたとも言える。


 一観客として「ミルク」へ。いきなり全然関係ない話をするようだが、俺が「アメリカン・ビューティ」をあまり評価できないのは、“リアルな話を映画的な嘘でごまかしているもの”の象徴に見えるからで、一番手抜きすべきでない点に手を抜いている事にある。それは物語後半、クリス・クーパーに後頭部を撃ち抜かれたケヴィン・スペイシーの顔面が吹き飛んでいない事に集約されている。要するにハーヴェイ・ミルクも頭部に2発弾丸を受け殺されたので、この映画化にはその点が危惧されたという事だ。それでもまぁ、監督であるガス・ヴァン・サントは「エレファント」という、単なるゲテモノでは括れない傑作も撮っているので、本作はそのリアリズムにおいて楽観していたわけだが…。確かにゲイを公職に就かせない事を認める法案に対し、ゲイやマイノリティが団結してムーブメントを盛り上げていくという、彼の残した最大の功績が描かれる過程は胸のすく思いだ。しかし、いくらそれまで丁寧にゲイの公民権獲得への奮闘が描かれていても、ショーン・ペンの顔面が吹き飛ばないんでは興醒めだ。しかも、そのたおやかな動きだけはいつもと違い独特だが、ビジュアル的にはミルク本人にはあまり似てないショーン・ペンは、いつ暴力を振るい始めるかハラハラする。対して初期のパートナーを演じるジェームズ・フランコの方が当時のゲイ・テイストを濃厚に醸し出せており素晴らしい。全体としても撮影が「アメリカン・ギャングスター」などと共通しているために、70年代の雰囲気はかなり表現できており、全体的なバランスはすこぶる良い。ただ、ガス・ヴァン・サント作品だからこそ、差別、疎外、それに対抗するための暴力といったものにはもっとセンシティヴであって欲しく、故に、撮ると宣言してより、長年この偉人に執着してきた(そして今まで実現できなかった)のも、監督自身のゲイというパーソナリティも含めて、大きすぎるテーマだった事はよく分かる。だが、彼やキング牧師のように、差別に対して正規の手段を踏んで対抗する者が、最終的に暴力によって踏みにじられる事を暴いてしまうという事は、結局差別される者の唯一の抵抗手段が「暴力しかない」という、悲しい事実が表出してしまうのだ。唯一の希望はエミール・ハーシュによって演じられる、ミルクの継承者なのだが、その光は微かなものだ。やはり、初期のマルコムXや、その路線を継承したブラック・パンサー一派のように、殺られる前に殺れとアジるしかない。民主主義も銃も存在しないこの国でも、その認識は持っておいた方がいい。なぜなら、この国こそは差別で出来上がっているから、いつ差別される側に回るか分からないしな。それにここはもう一度徹底的に蹂躙されないと、“異人さんの国の話”とか言って流す人間が多すぎる。わたしは真悟 6 (6) ビッグコミックスドラゴン・キングダム プレミアム・エディション [DVD]スカーフェイス 【プレミアム・ベスト・コレクション】 [DVD]奇蹟 / ミラクル デジタル・リマスター版 [DVD]アクシデンタル・スパイ [DVD]デッドヒート [DVD]毒虫小僧 (ヒットコミックス ショッキング劇場)ASIN:B001S2QNMIハーヴェイ・ミルク [コレクターズ・エディション] [DVD]アメリカン・ビューティー [DVD]エレファント デラックス版 [DVD]アメリカン・ギャングスター [DVD]マルコムX [DVD]パンサー [DVD]