代わりに置いてはいけないモノ。

 俺が昔からほぼアレルギーのような、“アイドル体質”である事は、実際に俺を知る人間ならばそこそこ知るところだと思う(最も重篤な時期は高校時代)。というのも、別に隠しているわけではないが、ある意味自重しているからだ。ある病気を治す(気を逸らす)ために別の病気に罹り、その新たな病が結局自身を滅ぼしてしまうような、「デビッド・クローネンバーグシーバース(あるいは、『シーバース/人喰い生物の島』)」に似た関係性があるために、自らを抑えつけて来たのだ。
 それでも狂った女と同居していた時分は、その狂った女は、その狂気ゆえか非常に嫉妬深く、俺が当時顔中に装着してたピアスの類を(その装着方法や開け方について)、行き交う見知らぬ女に聞かれる度に答えてやる程度で激昂していたために、自動的にそうしたものには目は行かなくなっていた。
 それでも、そうした己のセンサーを全く意識しなかったわけではなく、当時から非常に気になる存在が歌手としてデビューしており、件の“アイドル体質”は頭をもたげ始めていたのだった(おかしくなり始めた女を試すように、度々口にした事もあるが、反応は引き出せないほど症状は悪化していた)。そして女の狂気が頂点に達し、出奔してから俺はようやく自由を得た。代わりに女は現在強盗傷害犯人の狂った男を巻き込んで、俺の生命が脅かされ始めるのだが、それはまた別の話だ。
 自由になった俺は重石になった女が取り除かれた事で、(その対象が俺にしてみれば子供であるとか、類型化された美に落ちる事を良しとしないのを理由に、)俺自身の内部での反発もあったが、それにすら屈して、公然とアイドルをその場所に置き始めた。つまり、俺の心の神棚に。一応、ここで俺がそう指しているのは、世間的にはアイドルではなく、“アーティスト”と見做されているようだが、ルックスで判断される事を免れない芸能人など、全てはアイドルなので(芸人ですらその傾向にあるため)一括りにしておく。
 要するに、俺は愛したと錯覚していた存在が消えた途端に、その代用品としてのアイドルを消費し始めたのだった。そのお蔭で、今まで感じた事がないほど痛みは軽減され、俺はそのアイドル本来の役割を、その意味を初めて身体ごと認識したし、高校時代にはこんな事は感じなかったので、本気でその効用に感謝した。初めのうちは。
 しかし、徐々にその事しか考えなくなっている自分が確実におり、人間として屈折していくのを感じながら修正する事もできないまま、どんどんその傾向は加速して行った。コレクターとしての本能が刺激され、散財もし始めた。30も過ぎようと言う人間が高校時代と同じメンタリティに逆戻りをし始めたのだから、危機感を覚えないはずがなく、その逆戻りは快感ですらあったので、そこに素直に身を委ねてしまう事への抵抗もあった。
 それは多分、漏らしてはいけないと思って、我慢の限界を迎え、遂に心の防壁が崩れ、漏らしてしまうプロセスに似ている。要するに射精にも似ている。そして結局、俺は崩れ、その存在を認めてしまった。でも、俺の心の全部は渡さない。その気持ちがあるから、ここでもハッキリと書かないのは俺のちょっとした意地かな。分かる人には分かるだろうし。実は高校時代と違って、その過程を楽しみ、観察する余裕さえも俺は手に入れていたのである。その客観性のお蔭で、辛うじて身を滅ぼさずにいる。まぁ、その差異には、単に童貞であるか否かが作用しているだけのはずだろうが。
 そして現在、ケツから血を流させまいと、ケツの穴が勝手に狭窄を始める状況を慮るにつけ、精神の反応も肉体の反応も、所詮は“反射”によって成り立っている事が痛感される。しかも、それは図らずも、客観的には今、俺のケツに“一番締りがいい”状態を迎えさせてしまっている。だがストレートでもある俺が、リチャード・クレンナ(トラウトマン大佐)による、「犯られた刑事(やられたでか)」のような状態に置かれない限り、その締まりの凄さを味わう事のできる奴はいないのはもちろんだが、医者が小指で触診もできない(ほどに狭窄して痛む)俺は、紛れもなく“旬”なのだ。


 一観客として「チェイサー」へ。また韓国映画に希望を持たせてくれた、久々の本領発揮作品。その波は数年おきにやって来ている気がするが、これもその一本である。行方不明になった売春婦の探索から、思いがけない猟奇殺人に辿り着いてしまう元汚職警官の女衒を通し、モデルとなった事件に対するイメージを大切にしながらも、ある程度の改変を加える事で、より刺さる物語にグレードアップさせている力作。モデルになったのは犯人護送時、詰め寄る遺族のババアに刑事が思いっきり蹴りを入れる場面も記憶に新しい、いわゆる「柳永哲ユ・ヨンチョル)事件」である。しかし、事件全体のディテールもさる事ながら、犯人の人物造形も、結局動機自体は不明ながらも、女に対する屈折した感情を持つ男と改変する事で、事実との間に“つかずはなれず”感が盛り上がり、事件を知っていればいるほど楽しめる。また、犯人が単純化された事により、主人公となる女衒の、女を金ヅルとしてしか見ないという、同じく屈折した感情を持つ者同士のいい対比になり、架空の主人公にも重みを持たせている。しかしそこで共通するのは、未だに儒教社会が引きずる女の存在そのものへの軽視である。さらに追い討ちをかけるのが、教会や十字架などの執拗に繰り返されるキリスト教のイメージで、これは安易な贖罪などのメタファーではなく、韓国社会がこうした二重の倫理観の縛りに成り立っている事が、主人公や犯人、ひいては被害者のようなアウトサイダーを許容し、犯罪の温床化を促進している苦い告発にもなっているのが、問題の根深さを窺わせる。しかも、新人監督の作品のためか、従来の韓国映画と違い知らない顔が多く、その風貌の暑苦しさや内容も相まって余計に重いのは、まるで北野武のデビューを思わせる。ただ根本的に違うのは、走るシーンを開放的に撮る武に対し、本作の走りは、蒸し暑さや雨、入り組んだ路地などの、凄まじい湿気と不快感を掻きたてる装置であって、まるで正反対である。お国柄の鈍い痛みに満ちた暴力描写も徹底しており、今やスプラッター映画におけるチェーンソーに匹敵する、韓国謹製暴力大作のアイコンと化した感のある、カナヅチが「オールド・ボーイ」以来の登場。ちなみにアイコンと言えば、実際の犯人が護送時、大きなマスクを着用していたのは、一応名目上は犯人の生き別れた子供に配慮してと言う事になっているが、この事件以降の連続殺人犯も同様の扮装をさせられている事を考えると、犯罪者のアイコン化を防ぐ意図があるのは明白だ。同様に警察の取調べや捜査方法なども、昔の日本の刑事ドラマのような殺伐感に満ちているため、件の遺族への対応も含めると、日本以上に官憲の横暴は凄まじい事が想像される訳で、警察による拷問や自白強要の隠蔽にマスクが使われた可能性も示唆している。汚職警官は完全なフィクションにしても、ここまで警察の闇を暴いた韓国映画界は、もう“究極の汚職警官”「禹範坤(ウ・ポムゴン)事件」を映画化するしかないだろう。マジで期待してるよ。


 一観客として「バーン・アフター・リーディング」へ。一般的にはアカデミー賞受賞後初の作品として受け止めればいいんだろうが、その息抜きにも見えるほど落差の激しい作品で、コーエン兄弟的には「赤ちゃん泥棒」に始まり「ディボース・ショウ」に至るまでの、“非ノワール、ややバカ寄り”系に連なる作品である。しかも幻となった「白の海へ(To the White Sea)」以来、果たされなかったコーエン兄弟に筋を通したブラッド・ピットの初出演だが、結局「カリフォルニア」〜「トゥルー・ロマンス」路線(この路線の集大成も兼ねているのが「ファイト・クラブ」である)を継承する脳足りん助演で、彼目当てに来た奴には物足りなくても、ピットのバカ路線を支持する人間には必見。そもそもシネコン上映には相応しくないテンションの低さで、バカを売りにするにしても爆笑を誘うバカではなく、苦笑を誘うタイプで、いつも通り物語も特にカタルシスはないし、コーエン兄弟の作風が掴めていないと厳しい。それさえ事前了承しておけば、確かに登場人物は全員バカだし、宛書きと言うキャストも、見事に演出に応えたバカを徹底しているんで、バカを寄せ集めりゃカオスが拡大していく、“バカのバタフライ効果”は最大限に味わえる。さらにツボを外さず、綺麗事にも逃げない暴力描写はキレもコクも健在で、「ファーゴ」のブシェミに通じる間抜けな死に様はより派手に演出され、余計にバカバカしい。ピットと同じくコーエン兄弟組初参加のティルダ・スウィントンも例外なくバカであり、そのため全く美しく見えないのも、個人的には初めての経験だった。それにしても出演三回目のジョージ・クルーニーは、登場人物中も、クルーニーのキャリア上も最悪バカ記録を更新。さらに輪をかけ、エドワード・R・マローの事なんかが劇中の話題として出て来るのは、嫌でもクルーニー監督による「グッドナイト&グッドラック」を思い出してしまうし、この盛り立て様は奴へのゴマスリなのか?監督は奴に弱みでも握られてるのか?と勘繰ってしまう。しかし、作品全体としては中盤、裁判所の召喚状送達人が登場する事で、「身元不明者89号」が思い出され、加えて宛書きのバカを並べ、そのアンサンブルをシミュレートするという構造から、私見ながら今回はエルモア・レナードを特に意識しているように見えた。実際レナード作品は演出次第ではシリアスなバイオレンスにも、ブラックな犯罪コメディにもなり得るキャラで埋め尽くされている。その特色である“レナード・タッチ”にしても、作家本人が「キャラ設定だけして脳内に配置すると、その性格によって各キャラが勝手に喋って行動し始めるのを記録してるだけ(大意)」って言うだけはある、濃い面々によってその職人芸が確立されているように、今回のアプローチと非常に良く似ているのだ。ただ、そこにあざとさを感じるのと、さりげないのとは大きな違いで、本作の作為的で露骨な下ネタやバカさ加減よりも、やはりレナードの筆による、犯罪者特有の天然バカを活写するリアリティの前では、全く太刀打ちできていないのであった。シーバース [DVD]犯られた刑事 [VHS]パク・チャヌク リベンジ・トリロジー (初回限定生産) [DVD]殺人の追憶 [DVD]バーン・アフター・リーディング [DVD]赤ちゃん泥棒 [DVD]ディボース・ショウ [DVD]白の海へ (BOOK PLUS)カリフォルニア [DVD]トゥルー・ロマンス [DVD]ファイト・クラブ 新生アルティメット・エディション [DVD]ファーゴ (ベストヒット・セレクション) [DVD]グッドナイト&グッドラック 豪華版 [DVD]身元不明者89号 (創元推理文庫)TRUELOVEMusicTHE ENDYESVOICE