私は如何にして新聞購読を止めてテレビも嫌悪するようになったか、他

 ところで、新聞を読むのを止めて十年ほど経過するが、これは実家を出て狂った女と生活するようになった事と軌を一にする。その代わりはテレビのニュースが果たしてくれていたので別に不便は感じなかった。
 そして現在、テレビの視聴も止めて五年ほど経過するが、これは狂った女との生活の破綻、その後に続く一連の修羅場や、俺自身の心身が破綻していく過程と、これまた軌を一にする。そして驚くべき事にこれも全く不便を感じない事を身に沁みて感じているのだ。
 なぜならテレビを視聴していた末期は、下らないバラエティが増え、ドラマ等のテレビを通した表現も、全て去勢された表現でしかなくなってしまっていたので、もうニュースしか視聴していなかったのだ。その代わりは現在、インターネットが果たしてくれている。
 しかし、俺はインターネットを万能と見做すのには時期尚早と考えるので、代用品としての役割は完全に果たしているとは思わないが、情報が欲しい時、決められた時間にテレビの前にいなければならない生活と比べれば、時間的な自由度が生まれ、それは俺の行動の自由に繋がった。その自由は、新聞やテレビのように、情報を受動的に人間にもたらすものとの決別から、俺自身が求めている情報と知識を能動的に求める時間に充てられ続けている。
 そして、己を己の求める本や映画だけで満たし、五年が経過したと言うわけだ。世間ではカネや何やらが人間どもの間に格差を生むと言われ続けてきた期間を、まんま情報や知識の差をつけることに費やした事になる。先述の格差は、経済がどうしたとか言っている薄汚い識者が、既に指摘しているだろう事だからどうでもいい。問題はそうした萌芽が見え始めていた時期、俺は同時に情報や知識の差が生まれる可能性を周囲の人間に指摘し、自ら差を際立たせようと実践して来た事にある。そして皆が知る従来の“俺の特性 ”は、俺の選択において、より極端な“俺の特性”へと進化し続けている。
 各自をその志向する限り、オリジナルな方向へ極端に振り向ける、この知識や情報の差は、別に格などなく、故に上下もあるはずがないので、むしろ“こだわりの差”と言った方が適切かも知れない。ただ、求めようとしない人間や、無知の知に至らない人間は確実に鈍化するし、インターネットのニュースを盲信するバカも同様だ。テレビ以上にインターネットの情報は疑う必要があり、故に裏を取る感性も要求されるので、新聞やテレビへの盲従に慣れ切った人間に、その感性を求めるのは酷かも知れない。
 それでも、別にインターネットへの接触の如何や、PCや携帯の違いなど触れ方の差もあり、触れたから別に偉い訳でも何でもないのだが、自らも求める方向にこれを生かせば、インターネットへの接触によって作り出せる差は、取捨選択を自ら適度に出来る人間にとっては、確実にプラスに作用する。要するにインターネットに耽溺しろと言うのではなく、それによって空いた時間を読書に充ててもいいのであって、それは各自の活用次第だ。
 これは現実に、俺の周囲の人々がインターネットへの接触の如何や、触れ方に極端な差があった(つまり、人によっては話題が全く噛み合わない)事から気になり出した事で、わざわざ指摘するほどの事でもないと考えていた為、今まで書く事もなかったし、“情報の差の拡大”は、この数年と言うもの、せいぜい近い人に言う程度に留めていた。
 ところが今回、入院が秒読みになり、麻酔が切れるまで手術後数日はベッドに釘付け、点滴に尿管挿入、触れられるものはテレビ程度という悲惨な状態が待ち受けている事から思い出し、この際書いておこうと思い立った次第である。まぁ、辛ければ本にでも、睡眠で夢にでも逃げてやろうと思っているが、腐れテレビはもう死んでいるので、死に際に映画やらマンガやらに、その汚い手を出して醜態を晒すべきではない事が、この五年でよく分かった。だから「テレビよ、早く死ね。独りで死ね。」という決別の言葉を、テレビ屋どもに言っておきたいし、俺はテレビに人間を作られた側として、その終わりも見届けて、骨は拾ってやるよ。


 ワーナー・ブラザーズさんのご招待で「ザ・スピリット」試写へ。かの「アイズナー賞」のウィル・アイズナーによる古典を敢えて題材に選んだのは、単に自分のルーツとなる巨匠の作品ってだけではなく、新聞連載ながら当時としては粗雑で俗悪な、オリジナルのパルプ感を持つ代表的な作品だからだろう。しかも原作コミックはその原型として、西部劇小説や探偵活劇小説が元来持っていたイメージを、よりカリカチュアして、断片的に想起できるイメージを詰め込んだ産物なので、その発展型としての“ノワールグラフィックノベル”の姿を、動画として見せるのに、料理し易い素材だったと言える。つまり、パルプ全盛時には穏健な時代ゆえに毒々しい色彩であった原作も、より“黒い”現代において、自身の手で現代風に色調補正するに打ってつけとミラーは判断した事になる。自作の「シン・シティ」で、コミックにおけるノワールの現代的解釈をのけたミラーだが、それを可能な限り忠実に映画にしようと試み、そして“監督”ミラーに“筆おろし”もした、ロバート・ロドリゲスとは逆の野心を本作で出そうとしている。師匠・ロドリゲスのメソッドに従わず、ジャンルは違えどクリエイターであるミラーは、自身の野心に従ってしまった訳だが、野心作は時として力が入りすぎ、理解されにくい。映画史における過去の範に違わず、結果は問題作となった。だがそれは駄作とは別である。パチ屋のボンボンがお遊びにメガホンを取ったのではなく、確固たるビジュアルを持つクリエイターが披露した脳内なので、それはそれで鑑賞する価値があるのだ。不死身なだけでとにかく女にだらしない主人公や、その特性故に美女に嬲られ、遂には剣で刺し貫かれるなど、作品より監督の性的ファンタジー発散の場として作用してしまっている点に注目し、楽しむ事もできる。前作ではメイキングに坊主頭とラフな格好で登場していたミラーだが、そのラフさが“ドワイト”や“イエロー・バスタード”似だったのに対し、本作の演出では髪とヒゲを伸ばし、フェドーラ帽にトレンチコートという風体のミラーが散見されるんで、やはり毎回肩入れしているキャラがバレバレだ。作中やたら姿を現す猫も、結局は女のメタファーだし、そんな中でも“小さいドロンジョ様”でしかなかったスカーレット・ヨハンセンより、出番の多いエヴァ・メンデス、その美しさに素直に感謝したくなる。つまるところ、ミラーが広げたかった風呂敷は果たされているのかと言うと、一応暴力や残酷、テクノロジーも盛り込まれている点は努力しており、主人公の不死性の遠因であり、争奪戦の対象となるマクガフィンだけが古く、そこには敬意を感じるので、半分くらいは実現できただろうか。ピンでここまでやったのだから評価していいと思うぞ。その隙間をサミュエルが各種コスプレしながら泳いでいるのであって、それは確かに見ものではあるが、サミュエル自身は「江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間」における小池朝雄のような立ち位置で、カラオケで気持ち良く歌っている人間を見る微笑ましさと重なるのも事実。ちなみにエンドロールはミラーの筆による、絵コンテに用いた翻案スピリットの絵で埋め尽くされ、ここが一番ミラーらしいな。


 一観客として「スラムドッグ$ミリオネア」へ。平均するとどれも三時間以上あるインド映画を凝縮した、口当たりのいいインド風イギリス映画。それでいて全く端折っては見えないので、バランスも良く無駄がない。それどころか体感時間が、実際は120分のランニングタイムより短く感じられる山場の連続で、単にインド映画の“いいとこ取り”ではないところが、ダニー・ボイルの力量であるとは言える。スター不在にも拘らず、そんな一番安上がりで面白く作れていた点が評価に繋がったんではないかと思える作品だが、なぜボイルが監督したのかは未だに釈然としない。“監督としてのチャレンジ”で片付ければそれきりだが、特に「トレインスポッティング」以来のウンコ描写、「28日後…」以来の眼球攻撃、物語全体を覆う、「シャロウ・グレイブ」や「ミリオンズ」的な一攫千金性、といった断片的な作家性しか感じられないのも事実だ。それは同じようにアジアを舞台にした「ザ・ビーチ」のように外側からではなく、アジア人の視点である内側から描いている事に起因するようだが、そうしたミニマルな展開だからこそ、逆に“街の復興”や“少年の成長”といった物語の普遍性も浮かび上がり、そこに本作の爽快感の全てが集約されているとも言える。従って、これはこれで、スケールのデカい与太話になる一方(例:「サンシャイン2057」)だった作品群に対する、ボイルならではの原点回帰というか、一つの仕切り直しと受け止めた方が、今後の展開を理解する上の助けになるだろう。なぜなら、原作そのままの映画化なら、かなり壮大な話になった筈で、意図的に縮小されている点からもそれは顕著だからだ。また、助けという点では、「クイズ$ミリオネア」が物語の中心にあるように思わされ、世界に浸る助けにはなるだろうが、そもそもあの番組自体発祥はイギリスだ。実際日本人には本作はアジアの話というだけでなく、既に色々なところで指摘されていると思うが、“街の復興”や“少年の成長”は、彼らの辿る“汚い大人への報復”も相まって、間違いなく「はだしのゲン」を想起させるだろう。その視点で解釈すると、主人公の兄貴は極道になり実に“隆太”的だし、酷い目に遭わされる“ムスビ”的な孤児も登場すれば、報復されるヤクザや町内会長、疎開先のババアに匹敵する汚い大人も多数登場する。その上「〜ゲン」にはババアが肥溜めに突き落とされたり、立ち退きに抵抗して糞尿をぶちまけたリしているわけで、逆にウンコ描写にも説得力が生まれるし、スラムとそこに生きる孤児たちの疾走感と生々しさを描くには、もっと必要だったとも言える位だ。確かに日本よりインドの“みのもんた”が見た目も所業も極悪だったり、欧米圏の映画にしては新鮮だろうが、アジア映画慣れしていると、汚な目の「トレインスポッティング」といった趣で、ハードさが足りないと思うだろう。ただ、慣れてない人間にはテーマ的にも、描写的にも剥き出しの暴力や生理的な不快感を抜きには語れない作品なので、予めそうしたものがダメな人間は見る資格がない!と、初めから切り捨てにかかる作風は好感が持てる。ムービー・マスターピース ザ・スピリット 1/6スケールフィギュア ザ・スピリットシン・シティ スタンダード・エディション [DVD]HORRORS OF MALFORMED MEN : 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間 [DVD] [Import]スラムドッグ$ミリオネア [DVD]トレインスポッティング【廉価2500円版】 [DVD]「28日後...×28週後...」感染ダブルパック [DVD]シャロウ・グレイブ [DVD]ミリオンズ スペシャル・エディション [DVD]ザ・ビーチ (特別編) (ベストヒット・セレクション) [DVD]サンシャイン2057 (特別編) [DVD]〔コミック版〕はだしのゲン 全10巻