夏、ガキどもに見える世界の歪みの遠因。等。

 この時期、肌の露出がコケットリーだと勘違いする女のガキが増殖するのが鬱陶しい。俺はガキに欲情できるほどヤワなセクシャリティの持ち主ではないので、ガキの未成熟な肌の露出など、単純に見ていて不快なのだ。何より大人のそれと違い、露出すれば異性の歓心を買えると思い込んでいる動物的な下心がよりストレートに下品である。そうした見た目の不快さだけの問題ではない、錯覚したコケットリーの無差別放射が、自爆テロの巻き添えを食うように迷惑なのだ。
 昆虫や動物が、夏場活発に生の喜びのエネルギーを発し、生殖に走るのは、死が目前に控えているので理解できるし、それゆえの切実さが愛おしくもある。まして昆虫や動物はそれらを教えられたわけでもないところが感動的なのだが、人間のガキは教育を受け、自ら考えることができるだけでなく、死が目前に控えてもいないので、死に想いを巡らせる特権を持っているのだ。そのくせ、そうした貴重な特権を無視して生の裏づけを持たないガキだけが、コケットリーを露出で強化し、無自覚にも周囲の人間を不快にしているわけだ。
 要するにこれは教育のせいなんで、別に中高生のガキがモテたがること全てを否定しようというのではない。それが特に女のガキの露出に結びつく必然性がないというだけの話だ。それに男のガキの場合は、この年頃、一部のヤンキー系センスのバカによって見当違いのマチズモとして出る以外に、モテたがる気持ちが肌の露出という形では出ない。そして件のマチズモ野郎さえ、涼しさを獲得する以上の過剰な露出には工夫しても走れず、慎み深いレベルに留まっている(例外として、メッシュシャツを着る男とか希少種は、ただの気違いなので除外)。その慎み深さのせいで、男は基本的に露出しようとも思わないと前提され、女は露出しても、それがコケットリーだと誤解されて何も言われず、いつしか男は“暑苦しい格好で我慢して当たり前”、女は“好き放題な格好をして当たり前”という偏見が世界全体を支配するようになった。
 つまり、この世界を覆う偏見も、男の鈍感さが教育過程の去勢で強められた最悪の結果なのだが、実はこうした男のガキのモテたがる気持ちの対処法として、女のコケットリーに相当する、磨くべきもの、解放すべきものは別にあることだけは明言しておこう。だが、ここでは話が逸れるので、今それについては触れないでおく。
 これが全てを自己責任と自認した、大人の女の露出ならこんな話にはならないが、問題はガキだ。結局露出がコケットリーと錯覚した上で足し算しかできないから、涼しさとは関係なく不特定多数へのコケットリーの放射という、完全なテロが至るところで起きている。それは無自覚なオッサンが広げるスポーツ新聞のエロ記事と全く同質の不快感を周囲にばら撒いているのだ。オッサンの行為をセクハラ呼ばわりする女がいるが、全く同じに相手を選ばない露出も周囲への嫌がらせに過ぎない(セクハラ以前の話なので、そう呼ばない)。
 こうした現状を、世界の大多数を占める、下心以外に持たない男どもはただ喜ぶだけだろうが、一度でも純粋に自分に振り向けられたコケットリーの滋味を知ってしまった男は、その無駄な放射を全て害悪と感じる。一応、この場を借りて告白すると、かつては俺もその滋味を知る数少ない一人だったし、肌の露出より死に想いを巡らせる特権を行使してきたんで、それゆえに不快を感じれば、生の裏づけを持たないガキどもを叩く権利があるんだよ。


 20世紀フォックスさんのご招待で、「サイドウェイズ」試写へ。「アバウト・シュミット」のアレクサンダー・ペインが次回作に選んだ「サイドウェイ」は、あらすじだけ聞くと彼の作風とは相容れないように見えても、しっかりブラックで下品な笑いを要所要所に詰め込んで、奥の深い人間ドラマを形成していた。その奥深さに最も貢献していたのが、美女でありながら地に足が着いたくたびれ具合を醸して、その年のアカデミー助演女優賞にノミネートされたヴァージニア・マドセンであることに異論を挟む奴はいないだろう。今回その邦画リメイクとなる作品では、マドセンに相当する役を演じるのが鈴木京香という、今までのリメイクであれば“邦画→洋画”パターンでのみ起き得ていた、リアリティとは別の“ゴージャス化現象”が、“洋画→邦画”の構図で起きていることに単純に驚く。もちろん、登場人物の肩書きなどは日本人的なリアリティを持たせるために改変されているが、例えば「Shall we ダンス?」のヒロインが洋画リメイクに当たり、「絵空事でも“あり得る”」草刈民代という絶妙な人選から、「絵空事でも“あり得ない”」ジェニファー・ロペスになった逆が起きたわけだ。だが、主人公同士の過去にまつわるエピソードの積み重ねを物語に盛り込むことで、辛うじてリアリティからの乖離を保っている点は苦心の後が窺える。その地ならしのためか、エッジの効いていた下ネタはそぎ落とされ、オリジナルから最も期待していた、フルチンでの全力疾走はナシだ。ただ、鈴木京香だけでなく、その親友に扮した菊池凛子が、ひたすらキュートな喋りに徹していて、こんな魅力的なのは「ちゅらさん」以来だし、オリジナルのサンドラ・オーより劇的にフォトジェニックで心地よい。女優陣だけでなく、エグ味が抜かれて日本のギョウカイ風にソフィスティケートされてるし、「考えるな、感じろ」みたいに、(機能しているかは別として)この規模の邦画にしてはマニア風なネタも入れてはいるんで、やや年配気味で、かつ邦画しか観ない層の頭には入って行きやすいんじゃねぇの?


 一観客として「バーダー・マインホフ 理想の果てに」へ。仮に宣伝で、「ドイツ映画界が総力を結集〜」と表現しても、誰もが納得するであろう大作。キャストが微妙に重複する「愛を読むひと」と比べると、あれが如何にやっつけか分かる。タイトル通り、70年代に西ドイツを席巻したドイツ赤軍派の興亡を描いた作品だが、権力の暴虐描写の圧倒性や、テロ描写のリアリズムは本当に素晴らしい。人民に対して誠実さを欠く権力に対しては、結局力で対抗するしかないと考えたメンバーが、力を行使する全能感から本質が失われ、力の応酬で、暴力が暴力を麻痺させていく有様が丁寧に描かれる。その説得力向上に一役買っているのが、赤軍創設者であり、「素粒子」のカップルでもある主役二人だ。反社会的とも取られかねない役柄だが、二人の起用で主役への感情移入をスムーズにしており、対する警察長官、ブルーノ・ガンツの抑えた演技も全体を引き締めている。さらには、「革命を夢見る女は美しいのだ!」と断言している女優の充実度(含「ヒトラー〜最期の12日間〜」の“ユンゲ婆さん”)と、暴力描写の数々。特に銃撃は顔面への着弾が多く、頬を撃ち抜かれた男の口から硝煙が立ち上る様は美しさすら感じるし、乳母車での襲撃シーンは上質のアクション映画そのもので、暴力の快楽と無残さを緩急取り混ぜて暴く。気付けば、幻の深作欣二作品、「実録日本共産党」もこうなるべきだったんじゃないか?と妄想していたな。また、思想的に関連はないが、ちゃんと「ミュンヘン」の前日談としてもピタリと納まる憎い設計。歴史を描くため既存のフッテージが有効活用されており、国内事情の背景や内圧の高まりから、事件が立体的に、必然性を持って理解できるのも有り難い。暴力の正と負に真摯に向き合っているが故の、極めて乱暴な幕切れに、ボブ・ディランの曲が無力に重なる。唯一残念なのは、男女共に性器が修正されまくりで、表現の規制まで70年代にしなくてもいいだろ。時代のフリーセックス表現に不可欠なんで、児童ポルノまがいでも修正しなかった「エコール」とか見習ってくれ。アバウト・シュミット [DVD]サイドウェイ(特別編) [DVD]Shall we ダンス? [DVD]Shall We Dance ?(初回限定版) [DVD]ちゅらさん 完全版 DVD-BOXディレクターズ・カット 燃えよドラゴン 特別版 [DVD]愛を読むひと (完全無修正版) 〔初回限定:美麗スリーブケース付〕 [DVD]素粒子 [DVD]素粒子 (ちくま文庫)ヒトラー~最期の12日間~スタンダード・エディション [DVD]ミュンヘン スペシャル・エディション (2枚組) [DVD]エコール [DVD]