性的越境への誘い、その可能性などについて。

 ケツの穴は、「だいたいあと一ヶ月」様子を見るのが妥当だそうだ。医者は俺の肛門を観察するなり、「あぁ、キレイですねぇ…。」とAV男優のような言葉を吐き、続けてそう述べた。確かに傷跡も消えてはいるだろうが、せっかく前回よりも美人のナースに丁寧に剃ってもらったケツ毛も、既に生え揃ってきているのが触感から分かるだけに、美的な感覚とは別に下された肛門へのジャッジに感じる不本意さで複雑な気持ちになる。しかも、その夜二週間ぶりに出血し、それまでの摂生が無駄だったと判明したので、徒労感の中で安静に過ごすほかはない。我ながら、よく拘禁症が出ないもんだ。
 その上、ケツに常に挟み込む特殊なガーゼ、通称“トラクリーゼ”が以前より百円ほど値上げしているのである。トラクリーゼにはサイズがあるので、少しでも安いものがないか、病院の売店で吟味していると、どれも型番が「G-○○(“○○”は数字)」だった。以前ケツに注入する薬の名称について言及したが、それと同様、頭の部分のアルファベットは“AtoZ”があるわけではなく、使う奴が単に“痔”だから“G”という型番しかないと思ったが、今回は話が少し違った。
 そこになぜか一種類だけ、「P-○○」という型番が存在したのだ。それもこれだけ極端に形状が違うので、用途が“pussy”故ではないかと直感する。いずれも患者をバカにした話だが、実際痔は女の方が多いと言われるばかりでなく、近い部分の病を診るための“婦人科”を併設している医院が肛門科系病院には多いので、あり得ないことではない。そんな発見が頭に残る中、診察時ナースに、それとなくトラクリーゼ値上げの件を話すと、実にあっさり「“夜用の生理用品”でも代用できますよ、そっちの方が安いし。」と勧められたのである。別に使いたいわけではないが、その時、生涯使うことがなかったはずの“生理用品使用御免状”を手に入れた気がした。
 そもそも経験に無駄というものは一切ないので、いい機会には違いないんだが、世間の“常識という幻想”が、俺が直購入することへのリスクを押し付けてくる。かつて「人間・失格」で、“女装して生理用品をコンビニで購入する”というベストバウトを演じた、斉藤洋介が近所に住んでいるので、こういう時にこそパシリをお願いしたいほどだ。だが、こんなことができるのも今のうちだけと思いたいんで、近所の変質者と思われても、薬局やディスカウントストアで、長持ちして俺のケツの形状にもフィットするものを、衝動買いしてしまう恐れは充分過ぎるほどある。
 10年ほど前、旅先の那覇で飲んでいて意気投合した、板前の兄ちゃんに包茎の相談をされ、「剥けたきゃ毎日センズリしろ!」と酔った勢いでチンコを見せ合ったことがある。その時、コザで男友達が米兵にトイレでナイフで脅された上犯され、自ら訴え出られずにトイレで泣いていた、という話を聞いた。もちろん板前も男友達も俺もストレートである。なのに“男の余計なプライドが邪魔をしている”ために、取るべき行動が取れなかったのだ。しかし、今の俺には邪魔なプライドなど、かけらもないことは断言しておく。出血による徒労感に、いい加減打ちひしがれてきているからな。


 一観客として「セントアンナの奇跡」へ。これが完成してから特に気になってたのは、やはりスパイク・リーイーストウッドに噛み付いたせいだ。それでも企画はかなり前からあり、また原作ありきで考証はしっかりしているので、元々件の論争自体が宣伝を兼ね、敢えて振った気がするな。“駆り出された”視点と“未来のため志願した”視点を交え、ブラックにとってのヨーロッパ戦線を“バッファロー・ソルジャー”の一個小隊に集約したい気持ちは伝わる作品だが、その中に申し訳程度に「戦時公債を買おう!」みたいな国策ポスターを紛れ込ませるのがリーのいじらしさ。戦争映画としては、表題の“セントアンナの大虐殺”についての描写は意外と力が入っているものの、他の戦闘はそれなりに手足が吹き飛び、鉄カブトをライフル弾が貫通する程度で、「プライベート・ライアン」以降という感触は抑え気味。というのも、従来スパイク・リー作品は暴力に接点のある素材が多いながらも、作家性を優先して暴力を犠牲にしたものばかりで、前作「インサイド・マン」も“暴力的メディア”との決別を宣言していたからである。よって今後に控える「インサイドマン2」や「L.A.riot」も、暴力を期待できるのに肩透かしの可能性は濃厚だ。しかし、今回はイタリア女を巡る兵士のセックス、そしてその私闘に時間を割き、極限状況下の人間共通の心性に迫る意図が見えたのは収穫だ。また、敢えて複数の思いを交錯させ、不条理な展開に厚みを持たせた点も活きている。しかし、これこそリー由来の“観客のモラルへの挑戦”という作家性でもあるので、条理や倫理を越えた極限状況下のセックスは、「ラスト、コーション」同様、生命としての切実さから、文句なしに美しく悲しい。そして本作でのブラックとイタリアンの緊張感ある関係を伏線として、時系列では「ドゥ・ザ・ライト・シング」という形でアメリカに花開くわけだ。ちなみに、戦争映画では非常に希少な“いいドイツ兵”も交えた、英・独・伊語混合の正しい戦争映画は、「イングロリアス・バスターズ」にも引き継がれることを期待するぜ。 


 一観客として「3時10分、決断のとき」へ。俺は犯罪小説家としてのエルモア・レナード派なので、近作の「キューバ・リブレ」や、「ホット・キッド」のような、“時代もの”を面白くは読めても物足りないのだ。だからレナード原作の西部劇と言われても、せいぜい「シノーラ」程度しか観ようとして来なかったし、本作もリメイク版に集うスタッフ・キャストによるところが大きい。そもそもレナードの西部小説は未邦訳で、犯罪小説におけるレナード・タッチ的な、構成や会話の妙があるかは、原書を読まないと確認の仕様がなく、どれもレナードのキャリア中初期のものなので、手を着けかねて現状に至る。しかも本作やオリジナルの原作は短編で、レナード自身もリメイクを驚いたというから、原作やオリジナルとの差異を云々というのは重要ではない。通常リメイクはオリジナルへの不満、あるいは挑戦で、いずれも監督の個人的な動機が大きく、「サイコ」のようにリメイク自体疑問視されるもの以外は、実はオリジナルへの言及はさほど必要ない。そうした視点からすれば、マカロニ的ハッタリのない正統派西部劇の可能性を示した作品であることはもちろんだが、本作からレナード的エッセンスの抽出は難しい。それでもレナード風の粋な会話に、凄まじい銃撃戦の増量や、親子間の志を継承するといったイベントを強化したという苦心は功を奏し、完成度を格段に上げているから、全く恐れ入る。何かと失敗作の多いレナード作品の映画化は、今後は短編に限った方がいいかも。他にもベン・フォスターによる悪党ならではのガン捌きや、すっぴんのグレッチェン・モルなど役者レベルの見所も多く、西部劇としては「セラフィム・フォールズ」等でも見られた中国系苦力描写がまたも入っており、そうした描写を入れて現代性を醸しているつもりなら、ジョン・ウーがかつて企画した「Men of Destiny」をなぜゴーしなかったのか?とプロデューサーどもに言いたくなる。しかし、「フリーキー・ディーキー」も現実味を帯びてきた以上、どんな駄作でもまず「キルショット」日本公開をしてくれ!と言いたくなる良作。人間・失格-たとえばぼくが死んだら- DVD-BOXプライベート・ライアン アドバンスト・コレクターズ・エディシ [DVD]父親たちの星条旗 [DVD]インサイド・マン 【プレミアム・ベスト・コレクション】 [DVD]ラスト、コーション [DVD]ドゥ・ザ・ライト・シング (ユニバーサル・セレクション2008年第10弾) 【初回生産限定】 [DVD]キューバ・リブレ (小学館文庫)ホット・キッド (小学館文庫)シノーラ 【ザ・ベスト・ライブラリー1500円:2009第1弾】 [DVD]決断の3時10分 [DVD]サイコ(1960)【ユニバーサル・セレクション1500円キャンペーン/2009年第5弾:初回生産限定】 [DVD]サイコ(1998) (ユニバーサル・セレクション2008年第4弾) 【初回生産限定】 [DVD]セラフィム・フォールズ [DVD]フリーキー・ディーキーキルショット (小学館文庫)