武士などどこにもいない、という事実。

 当たり前だが、病んでいる時こそ、思索を深める好機だ。加えて、病んでいると外出も控えがちになり孤独に陥るので、さらに思索を深める好機に恵まれていると言える。だからこの贅沢な時間を使って、山積みになっていた調べようとしていたことや、知りたかったこと、それらを用いた実験をどんどん先に進めているつもりだ。
 その内容はもちろん俺自身のためで、本気で下らねぇことが大半を占めるのはもちろんだが、他の何かに役立てようというものではないし、例えば、死生観を練り続けていることなどを取り上げてみても、それがいつか迎える自分の死についてのためであって、極めて個人的なのが分かるだろう。
 そして死だけではなく、死を前提とした生について思いを馳せる時、“武士道”という思想は非常に役に立つ。そして、そのための資料収集として書物を漁ると、「葉隠」などを代表として、“武士道”を扱った巷に流布している書籍などが、単なる“ビジネス書”の一ジャンルとして改変、曲解の果てに供されているという呆れた現状が嫌でも鼻につく。
 だが所詮“ビジネス書”などを読むような人間は、ビジネス(金儲け)に役立てたいから読むんであって、そうした動機で知識を収集する人間は商人でしかなく、どうあっても武士のメンタリティには近づけない。当然そうした層をターゲットに書き直され、去勢された“武士道”という思想も、理解したつもりでも、もはや本質が失われているので、全く無意味だ。
 言い切ってしまえば現代に武士に相当する存在などいないし、武士に近い階層もない。商人、あるいは農民的な会社員は武士などではないし、官僚も武士ではない。唯一軍人が武士に若干近くはあるものの、今の日本に軍人はいないし、仮にいても、なろうと思えばなれてしまう“職業”でしかない。要するに、現在ある特定の層を武士に擬えることに根本的な無理があるんだよ。
 ならば現代において“武士道”をどのように受容するかと言えば、“即時実用性の高い哲学”として存在すれば無理はなく、故に武士の命がけのエピソードがオナニー用に美化されたり、余計なカリカチュアなどされて弄ばれる、ふざけた妄想に歪曲されたものであっていいはずがない。必要なのは読み手が、「自分がこの生死の分け目ならどう動くか?」を、あらゆる階層や境遇において再考すること、それが容易に想像できる迫真性なので、その血腥さをそのままに広く説かれるべきものでなければ、実用性などあるはずがないのだ。
 従って現代にも通用する“武士道”というものがあるとすれば、特定の層に流し込まれて金儲けに代用されるような、脆弱なものではないし、何かと堅苦しい思想だと誤解されがちだが、そのフットワークは思いのほか広く自由なもので、生死を軽々と超越する想像力はもっと強調されて伝えられるべきものだ。
 よくよく読み込んでいけば、武士の心構えを説いた古来の著作には、卑賤な金儲けに役立つことなど一切触れられていない(それが今武士が滅びてしまった原因の一つでもあるのだが)。だから“ビジネス書”などを読むような人間は、目先の利益、個人的な小さな幸福などに囚われて一生を終えるしかない存在なので、武士道から自分に還元できるものは何一つないことは保証しよう。万一それがあるとするならば、覚悟を決め、卑小な幸福を追求する生き方から命がけで脱却し、そいつが根こそぎ変わることだけなのだ。



 一観客として「G.I.ジョー」へ。トイ映画を続ける気満々の、Hasbroロゴに鳥肌が立つ。事前情報では、デストロがただのクリストファー・エクルストンって以外に、アニメは唇が動いていたので、単に鉄仮面を被るだけになるのを心配していたが、争奪のターゲットとなるナノマイトの必然性はデストロにあったのだ。だた、まだ質感が「X-MEN」のコロッサスよりも雑で、今後三部作を追いかける理由ができた。あとは前書いたように、日本人役を嫌がったイ・ビョンホンの卑小なナショナリズムの懸念があったが、ストームシャドーの子供時代はハングルを日系人に混じって話しても、設定どおり舞台が日本だから、日本語とハングルの違いが分かる奴以外、世界的に半島系忍者とは誰も思わない。現代パートも英語だし、わがまま聞く振りして徹底的に無効化したスティーブン・ソマーズの思い入れはさすがで、他を痛みのない暴力で埋め尽くし、暴力英才教育を施す作りにしている点も玩具のコンセプト通り。ちなみに「G.I.ジョー」というと、12インチ人形と混同してる奴が多いが、“地上最強のエキスパートチーム”として、日本ではタカラから発売していた時期が短いから勘弁してやろう。中でも俺が現在も大事にするスネークアイ(ズ)は文句なし!俺も失くしちゃった相棒の狼・ティンバーは未登場だが恐らく次回出るだろう。また、バロネスもスカーレットもアニメなどより“美しい”というだけで価値がある。よって次回作は、俺の所持品中コブラ側で唯一存命の、リッパー所属の暴走族・ドレッドノックも出て欲しいし、コマンダーはメットか頭巾、どっちで登場するかなど、夢は膨らむ一方だ。それに大統領役がジョナサン・プライスという真価が最も問われるのが、次作以降という点も真面目に指摘しておきたい気はする。しかし、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットは“ヒース似”なことから巷で囁かれる、“二代目ジョーカー襲名説”封殺に出演したのか?今回その本気度は窺えないが、次作で視点の切替え時、「コーブラー!(GO!G.I.ジョー!)」と率先してやってくれりゃ、何も問題ない。



 一観客として「エル・カンタンテ」へ。まぁ、ラテン歌手のドラッグまみれの一代記な訳だが、題材となった歌手、エクトル・ラボーの持ち歌や、演じるマーク・アンソニーの歌も悪くないし、ラテン系の客層にはキチンと訴えてんじゃないの?ラボーの生涯を知っていることを前提に話は進んでいて、他は完全に置き去りだが、時として映画はそういう作りでも全然構わない。一応俺はこの手の話に全く興味がない訳ではないことは特記するが、本作ではどうでもよく、プロデュースおよびラボーの妻役として強権を発動しているジェニファー・ロペスの成果(およびデカい美尻)を観たかっただけなのだ。その点で彼女は出ずっぱりな上、老けメイクでも大して老けてなく、終始美貌が堪能できた。素では性格が悪いと評判だが、作品とオフィシャルな場では観賞物に徹してくれているし、仮に性格が悪くても彼女のように切り替えを徹底できているのがプロってもんよ。まぁそういう世評を意識してか、今回演ずるラボーの妻は、事実そうなのかも知れないが、傲慢で虚栄心の強い女という、従来の役には見られないキャラである。こうした工夫のお蔭で実は、彼女はあからさまに性格がクソ悪い女を演じた方がもっと魅力的に見えることも分かる。それでも、今まで彼女の役柄的なベスト、「Uターン」のファム・ファタールである“グレース”と、カーラ・グギノに交替して、ピンでドラマにもなっている「アウト・オブ・サイト」の“キャレン・シスコー”が双璧を成すのは崩れないけどな(次点は「ザ・セル」で悪に魅入られた状態の“キャサリン”。余談だが「アナコンダ」の場合、共演のカリ・ウーラーの方が断然良い)。それに性格が現実の自分に近いだけでなく、より所帯じみている分、夫でもあるアンソニーの助力もあってか、あまり役作りをしてなくも見えるのは、「ジーリ」同様彼女の人生を語る上で重要だな。しかしマーク・アンソニー、ラテン界ではラボー同様、歌手として偉人には違いないようだが、ヘナチョコな役のせいで時折スティーヴ・ブシェミに見えてきてしょうがなかった。葉隠 上 (岩波文庫 青 8-1)葉隠 中 (岩波文庫 青 8-2)葉隠 下 (岩波文庫 青 8-3)武士道 (岩波文庫 青118-1)X-MEN ファイナル・デシジョン [DVD]G.I.ジョー [DVD]G.I.ジョー ベーシックフィギュア コレクション1 スネークアイズ with ティンバーダークナイト 特別版 [DVD]Uターン [DVD]ネヴァダの犬たち (ハヤカワ文庫NV)アウト・オブ・サイト (ユニバーサル・セレクション2008年第4弾) 【初回生産限定】 [DVD]アウト・オブ・サイト (角川文庫)ザ・セル [DVD]アナコンダ Hi-Bit Edition [DVD]ジーリ [DVD]