アイドル本来の法則について、++。

 そもそもジャンルとして、「芸能人のおめでた」というニュース種別が出来ていること自体が問題なのだよ。“芸能人”と“アイドル”や“スター”が同義ならば、その道を選んだ時点で、そいつは人類ではなく“芸能人”という種族として、“人類”というつまらんカテゴリーからの離別を志向すべきだから。そして、その影響力が人類そものの進化を促すなら、それは素晴らしいじゃないか。落ちぶれてそうなったのでなければ、“身近なアイドル”ほど、矛盾した存在として許容されるべきではないし、所帯じみた“アイドル”ほどメディアが相手にすべきではないので、“おめでた”などと扱われる時点で、落ちぶれた“おめでたい奴”とも言える。
 かつて、“アイドルはトイレに行かない”と演出した側(売り手)の感性と、それを真に受けて信じたガキどもの感性は極めて正しい。実際、それを地で行く努力をするものこそ、アイドルであり、スターなどという称号に相応しく、崇拝を受けるべき存在であるはずだが、それに極めて鈍感だったのは、あろうことかアイドル本人たちなのである。
 アイドル自身に“アイドルはトイレに行かない”自覚があるなら、それが自らの“下半身”全般の否定を端的に指していると、いち早く気付くべきだ。排泄する下半身がないのは、同時にセックスや生殖においての下半身も存在しないことにならないと、筋が通らない。これが商売上の概念の話なのはもちろんだが、その流れで排泄を隠蔽するなら、セックスも隠蔽されなければならないのは自明である。
 しかし、現実には排泄ばかり隠蔽され、“生中出し婚”などが賞賛される状況であるため、件のようなニュース種別がまかり通っているわけだが、畜生レベルなチンコマンコ出し入れの延長を正当化したけりゃ、排泄もオープンにしなければならないことになる。下半身とは、ひとつの個体にはひとつだけ備わったものなのだから。別に俺はアイドルの排泄をオープンにしろと言っているのではなく、そこにダブルスタンダードがあるのは、崇拝される存在としては極めて“片手落ち”だと指摘しているだけなんだけどな。
 そして、あくまでも突き詰めてその両方を隠し果せようと言う、“志の高いアイドル”は、次のステップとして、概念ではなく現実に“人類”というカテゴリーからの離別を図るのは必然である。人類ゆえに避けられない、食欲(排泄)や性欲(生殖)、その先にある“死”を克服して見せるか、少なくとも克服しようという努力する姿勢を、彼(彼女)を崇拝する奴らに見せればいい。普通、ここまでの思考にまで発展しない奴は、例外なくその肩書きに人生を賭けてもいないし、単なる腰掛けっていう証明になってるということだ。
 それに、頭が良ければ当然その志をアピールすべきなんだが、高学歴を売りにしているアイドルにも、今までそういう奴はいなかった。むしろ、バカなら天然由来のひらめきで、“人類”への決別宣言をし、嫌味もなくそれを実行してくれそうな気がするので、バカにこそ期待した方がいいのかも知れない。だったらバカを売りにしている奴が多い今こそ、その可能性は高まるべきだが、相変わらずバカがどんどんバカになるばかりで、その兆しすらまだ見えては来ない。
 実は、人間をやめるなら法に縛られることもないので、セックスとの併用には使えないが、クスリでも何でもやればいい、という主張を堂々と展開できる特典さえつくのに、アイドル的存在ではあっても、ただのクスリ好き俳優やミュージシャンには、未だにその境地を迎えた奴がいない。まぁ結局、真剣にこのテーマと向き合い、人生を賭けて格闘し、その様を娯楽として、崇拝者やそうでない者にまで提供し続けることで、“人類”への離別を表現した偉人は、今のところマイケル・ジャクソンだけなんだから、それも当然だけどな。


 一観客として「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」へ。バットマンなどに比べると、ルックスも含め荒唐無稽な「マンガのキャラ」でしかないウルヴァリンだが、プロデュースも兼ねたヒュー・ジャックマンには、自分をメジャーに押し上げてくれたキャラとしての思い入れが、今後の進退をも企図して注がれているようだ。今回はアダマンティウム埋め込み手術の様子が具体的で、ここに子供だまし的な粗が目立たぬよう描かれているため、キャラの血肉を濃くすることに成功しており、ジャックマンのこだわりも最も発揮された箇所であると窺える。だが逆に、今まで記憶喪失という設定が強調されてきたため、エピソードの捏造が可能な“都合のいいキャラ”だったウルヴァリンに対し、制約を作り上げてしまったのも事実。それでも、映画版のみ押さえて来ている観客には、一作目に続くループとも観られるので、親切で整合性を持った気持ちいい作品なのは間違いない。そもそもアメコミは複数の作者によって長大に描き継がれているものなので、原作との差異を必要以上に指摘しても始まらないが、作り手もそれなりに各種設定や伏線を盛り込む努力はしている。その成果として、遂に姿を現したガンビットは、なぜ今まで出ないのか不思議だったが、満を持しての大活躍なので一応納得。ただ、「X-Men Origins: Wolverine 2」では展開上、せっかく築いた関係をチャラにせざるを得ないので続投は微妙だ。ならばセイバートゥースデッドプールとの確執がメインになのか?と言えば、これも同様の理由でそんなに期待できない。それに、舞台が日本だとも言われてるんで、要するにまた観なきゃってことだ。ちなみに、劇中人物の死が偽装されるなどの陰謀も過去に露見するので、偽装要員としてミスティークの存在を疑ったが、残念にもそれはナシ。でも代わりにリン・コリンズの美し過ぎるアップが多いんで、全然損した気にはならない。加えて彼女がストライカー大佐(将軍)に施したネタは、劇中随一のギャグとして炸裂、物語引き締めにも一役買っているので、このキャラは次にも引きずるかもな。


 一観客として「リミッツ・オブ・コントロール」へ。ジャームッシュの新作は、一般的には観念的に見えるのかも知れないが、余分なものがないどころか足りないほどで、主人公も観客も突き放している点では、字義通りのハードボイルドと言える。故に、全てに謎は横溢しており、しかし謎解きですらなく、明快な決着などないので、そんなものを求めるなら早々に退席すべきだろう。俗に“行間を読む”と言うが、本作はその行間だけが集積された作品でもあるからだ。世間的に定義される娯楽とは乖離しているかも知れないが、「デッドマン」や「ゴースト・ドッグ」のように、やる気になれば出来ないことはないのを既に証明しているのに、標的の分からない殺し屋の彷徨をテーマとしたのは、掴みどころのない作品ながらも明確な意志を感じる。顕著に分かるのは、物語として洗練され過ぎてきた近作への反省と、タイトルが示すように、物語自体を放っておくことで、役者たちに演じられる物語がどう変化を遂げるか、そして観客の内部でどう各々に処理されるか、という実験的な試みである。謎の中心に前作を引きずるようなビル・マーレイがいることに納得できる奴はいるかは別として、終盤が荒野なのは象徴的であるし、殺し屋が最後の手段として「想像力を使った」ように、我々の理解も彼と同じ手段に依らざるを得ない。そして、タイトルとは裏腹な作品自体が持つ本来のテーマは、裏口に出ている看板のようにスクリーンに刻印されている。それは、作品自体をいかように取ってくれても構わない、という“答え合わせ”みたいなもんだと受け止めたい。こう書くと何だか面倒臭い映画みたいだがそんなことはなく、一応、「ブロークン・フラワーズ」のガキの裸から、今回は成熟したメガネ女の裸、そしてその扇情的な死であったりと、下ネタを進化させようという試みも窺え、追って来た人間には収穫もあるのだ。あと、触れないわけには行かないが、他の奇異な登場人物の中でも、ティルダ・スウィントンは今回もいい裏切りを働いており、主役の知的な存在感を差し置いても観る価値はある。 ウルヴァリン:X-MEN ZERO <2枚組特別編>〔初回生産限定:デジタル・コピー付〕  [DVD]X-MEN トリロジー (ボーナスディスク付) 〔初回生産限定〕 [DVD]デッドマン スペシャル・エディション [DVD]ゴースト・ドッグ [DVD]ブロークンフラワーズ [DVD]