主体性のないババアは、スクリーンからの流れ弾を食らえ。

 アクションやホラー映画の映画館での鑑賞において、個人的に知り合いではなくても場を共にする年配の女性は、観察していると、残虐な流血場面であろうが苛烈な暴力描写であろうが全く臆せず、菓子などをモリモリ食われている方がたまにいる。そうした年配の女性をお見受けするたびに、性的な関心は全く湧かないにしても、非常に気持ちが安らいで、心が暖まるのである。
 なぜならそれ以上に見かける、残虐な流血場面やら苛烈な暴力描写に対しては、自らの手で顔を覆ったり、あからさまに顔をひしゃげさせて目をつぶったりするババア(=“女言葉”という厄介なものを使う世代、と定義しておく)が、作品としての映画を冒涜するために来ていることを強く感じるからである。
 まだ主体性があって、誤った作品選択のゆえにそうした行動に走るババアなどは、単に映画の本質が、人間のあらゆる性質に対する“ルドヴィゴ療法”的な効果があることを弁えていないだけなので、まだマシな方なのだが、同時にそれを理解していないがゆえに、残虐な流血場面や苛烈な暴力描写といった、去勢されたテレビではお目にかかることが出来ず、故にカネを払う価値がある表現を、わざわざ蔑ろにしに来ているのである。寝に来ている浮浪者の方が、目的があるだけ志が高い。
 まぁ、万が一、本気でそういう表現が嫌ならば、こうしたものは予め絶対にテレビ放送用への編集過程で去勢されることが分かっているので、テレビだけを観ていればいいはずなのに。あるいは、外出する口実に、作品選定など考えずに映画館に来たいだけならば、“テレビドラマの劇場版”でも迷わず入っていれば、表現への冒涜などという概念がそもそも存在しない、体裁だけは映画のなりをした“映画っぽい体験”は間違いなくできると保証しよう。
 しかし、基本的にそうした行動に走るババアは、観察している限り単独行動をしているものを見ない。さらに、年配の女性同士で来られている方々は、その殆どが先述の心が暖まるタイプの方々ばかりである。
 最も問題なのは、主体性もなく男の趣味に合わせて連れて来られたパターンの、男を乗り換えればその趣味も男の趣味に合わせてコロコロ変える、ゾンビのようなババアどもである。そうは言っても基本的には、“女言葉”を使う世代などは、男の隷属物としての刷り込みが根強い世代でもあるので、男がコロコロ変わるということはまずあり得ず、大抵が隷属している男の趣味に引きずられる形で価値観を形成しており、自分も映画体験を共にする男と、残虐な流血場面やら苛烈な暴力描写を楽しみたいと考えるババアは、ほぼ皆無なのは言うまでもない(もし居れば、麗しい年配の女性になるわけだ)。
 結局こいつらは「インデペンデンス・デイ」のエイリアンと一緒で、資源(男のカネ)が枯渇するまでは趣味でも何でも(時には異常な性的嗜好でさえも)、表向き合わせて吸い尽くし、資源が尽きたら次の星を目指すだけなのだから。あるいは人間の都合で交配された結果生まれ、野生では生きることが出来ないチワワなんかと一緒で、実際に酸鼻を極める流血の世界や、銃弾飛び交う暴力が支配する世界では、一分一秒も呼吸が出来ない(と勝手に思い込んでいる)存在なのだから。つっても、現実にそういう世界に放り込めば、本性は分かるだろうけどな。
 つまり、残虐な流血場面やら苛烈な暴力描写に対して、表面上合わせて嫌々来ているババアどもは、映画に来ているのではなく、自分の生活保障の足場を固めるためのパフォーマンスに過ぎず(本人は家庭を守ってるつもり)、そもそも映画という表現形態自体を認知していない可能性すらあるということだ。そして、ここまで指摘しても、自分が言われてるんではないと思っているババアは多いだろうし、こんな駄文は読むはずもないのは百も承知だ。
 でも、そんなババアどもに優しく言葉をかけてあげられるなら、「テメエらババアどもは、いつでも自分の観たい映画を観られるし、観たくなければ拒否することだってできるんだ、それに、何か観たいものがあるなら、(ババアでも)レディースデーやら、『(60歳以上は)いつでも千円じゃ!』なんてサービスっていう特権で、“選択の自由”はどこにだってあるんだよ…。」って、シネコンの手先になって、耳元で囁いてあげたいな〜。



 一観客として「ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション」へ。4本の短編アニメーションだけで世界的な評価を得ながらも、自発的に遁世し浮浪者となった作家の全作品を含む、7本の短編による特集上映である。才気がみなぎる作品群と、その後の転落、それに伴って変容していく屈折した内面まで、一人の作家を、その端的な表出である作品に限らず、後年彼が注目されるきっかけとなる、彼に材をとったCGアニメーションも含まれているので評論的な面もフォローし、かつそれ自体も作品として昇華しているという、充実極まりないラインナップ。それは彼が寡作で極端な人生を歩んだからでもあるが、同時に作家のコントロールが完全に及ぶ表現とは何か、重大な示唆も含んだ組み合わせとなっている。以下短評。

 ■「ライアン」クリス・ランドレス作品/2004/実を言えば特集上映の中で最も刺激に満ちた作品であり、ラーキンが収容されているシェルターにインタビューをしに行った監督が、その模様をCGアニメーションとして再構成。単なるインタビューを、内面の変化や感情が外見に反映するという、「ビデオドローム」や「鉄男」に匹敵する、壮絶な肉体変容のドラマに仕立てているのは圧巻。

 ■「ライアン・ラーキンの世界 特別版」ローレンス・グリーン作品/2004/「ライアン」とのセット上映を抜きには語れない、メイキング的な位置づけの作品であり、本来のインタビューの実態を補完するドキュメントであり、後に作品化されたインタビューに対するラーキン自身からの批評でもある。そして互いに話を引き出そうという原動力が、各自の勝手な思い入れにあることも露呈される。

 ■「シランクス」ライアン・ラーキン作品/1965/アニメーションは結局“絵”なので、それらを動かす試みはあらかた目にしてきたつもりだが、木炭画をアニメーション化するというのは、この作品以外に聞いたことがない。しかもここでも独自の画風を確立した上、牧神パンの逸話を描破した。木炭画の場合、ぼかしや消しを食パンで行うが、題材との関わりにそういう駄洒落の意味はないと思う。

 ■「シティスケープ」ライアン・ラーキン作品/1966/「シランクス」を実製作させるための試作品で、やはり木炭画アニメーションだが、画風が違う。つまり作品ごとに画風を変えているのだが、後の作品と比較すると、こちらがよりラーキンらしいと言えるだろう。ヒッピーでもあった彼が、形は変えても行き着くことになった終生のテーマ(居場所?)がストリートだとよく分かる、真の処女作。

 ■「ウォーキング」ライアン・ラーキン作品/1968/線描と水彩画を動かすことで、色彩というチャネルが加わり、アニメーション作品としても格段の進化を遂げているが、ただ単に“歩く”ことへの素朴な凝視が、次第に動きそのものへの驚き、喜びに変貌していく過程が丁寧に描かれていく。しかしその間画風も動きも慌ただしく変容するので、これが手書きのみの計算でなされていることに驚く。

 ■「ストリート・ミュージック」ライアン・ラーキン作品/1972/アニメーションの原点、“動き”への注視は今回も健在だが、こちらはタイトル通り、音楽と調和させた動きやイメージの多様性に挑戦している。「ウォーキング」同様背景が殆どないのは、ラーキンの興味が動きそのものにしかないからだが、若干登場する背景が路上であることも、作品を連続して観ると格別の意味を持ってくる。

 ■「スペア・チェンジ 小銭を」ライアン・ラーキン、ローリー・ゴードン作品/2008/復帰作に構想していた、路上体験に基づくスケッチをベースに、ラーキンの死後協力者の手によって完成した作品。個人的な内面もさらけ出す展開は、路上から生まれるのは音楽や文学や大道芸に限ったことではなく、彼が文字通り路上のアニメーション作家であると、その一生を通じて実現した、人生と作品の融合と言える。 



 一観客として「空気人形」へ。ペ・ドゥナが脱いでいるが既に、「復讐者に憐みを」で裸が拝めるので意外性はない。だが日本人観客にあまり刷り込まれていない、新鮮味のある顔として、起用は単純に合格。しかも彼女の場合、意識を持ってしまった人形の役を演じる上では不可欠な、単に無表情ではない表情の無垢が宿っている。脱ぎ要員としてのAV女優とかの起用では、表現力がないばかりか、観客の先入観だけでなく、セックスの臭いも濃厚過ぎる。この役の場合、セックスの意味自体理解できていないこと(にもかかわらず性的用途に特化した人形である矛盾)が必須だから。よって本当は、彼女に肌色ラバースーツでも着せて、裸をあえて出す必要もないのだ。元々覚醒前の“ぺ人形”が登場する上、覚醒後も皮膚の“継ぎ目”を気にしているので、より人形っぽく意匠を凝らしても良かった。まして、彼女の肌が荒れているという意味ではないが、人間らしい肌の質感を接写してしまい、分かりやすく言えば、エージェント・スミスが嫌悪したような、“人間臭さ”が強調され、彼女の無垢がやや損なわれており、残念である。それでも、「グエムル-漢江の怪物-」のくたびれ具合に比べれば、ギリギリの痩せ具合と屈折した性格による、「復讐者〜」に次ぐ美しさが引き出されているのは間違いない。話については、本来「ラースと、その彼女」の真逆を行くべきで、掘り下げれば「ブレードランナー」や「イノセンス」に匹敵する哲学を提示できるテーマを内包しているが、これを消化したとは言えず、その悲しき存在に確たる救いはないので、マンガを映画化というより、原作の設定を監督の空気感でそれなりに料理したという感じ。後半無意味に残酷と無垢の交錯する描写が登場するが、あの行為より、去勢に及ぶべきだったのだ。それには彼女の本来の役目としての描写も徹底しているべきで、要するに岩松了だけでなく、キモウザいだけの柄本明の息子や、寺島進にもギタギタに犯される(描写を入れる)べきだった。壺振りをしない“街の名物気違い”の相手だの、呑気に「バッド・ルーテナント」を探している場合じゃないのだ。時計じかけのオレンジ [DVD]スマイルBEST ゾンビ ディレクターズカット版 [DVD]スマイルBEST ゾンビ 米国劇場公開版 [DVD]スマイルBEST ゾンビ ダリオ・アルジェント版 [DVD]インデペンデンス・デイ [DVD]ビバリーヒルズ・チワワ [DVD]ビデオ・ドローム [DVD]鉄男?TETSUO THE IRON MAN? [DVD]鉄男??TETSUO? THE BODY HAMMER SUPER REMIX VERSION? [DVD]復讐者に憐れみを デラックス版 [DVD]マトリックス 特別版 [DVD]グエムル-漢江の怪物- スタンダード・エディション [DVD]ラースと、その彼女 (特別編) [DVD]ブレードランナー ファイナル・カット スペシャル・エディション (2枚組) [DVD]イノセンス スタンダード版 [DVD]バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト [VHS]緋牡丹博徒 [DVD]Bad Lieutenant [DVD] [Import]