また一本、俺に刺さった(間接的な殺人の告白)。

 それは墓標なのだが、それはつまり俺のことでもある。俺は俺が生きることで、俺の周囲の死んだ人を俺の中に生かし続けるという墓標なのだから。俺としての、俺のための生より、その思いは年々強くなり、いつかこの思いについての思考の集積を書かねばならないと思い続けて来た。それは現実の人の死を含むものであるために、長らく俺の中ではっきりとした形を結ばずに来ていたものなんだが、かつての同僚であり、そんな中で得た貴重な友人でもあった人物の死により、ある程度は書かねばならない時が来たようだ。
 彼の死に関しては詳細不明。ただ確実なのは、ネタでもない限り彼の死が覆されることはないという事実だけなので、知る気も起きん。単純に、俺の周囲に自らの意志によって(かどうかは完全には不明だが)、生と死の垣根を超えようとする人がいたことに畏怖を感じるし、その変わり果てた(と思われ、小さな箱に収まった)姿としか対面は叶わなかった。故に現実感もない。だが、やはり彼は亡くなってしまったのだ。しかも、彼とはいくつかの約束をしておきながら、俺は自らのケツの不健康を理由にそれらを実現できずじまいだった。
 彼を追い詰めるものがどうしようもない位に大きかったのであれば、仮に俺がどう動こうが打つ手はなかっただろうし、俺の存在がそれほど彼にとって重かったとも思えないが、その約束を果たしていたら、俺は彼を少しは延命できたかも知れない、という無念さが打ち消されることはなく、そう考える自分はつくづく偽善者であるとの思いも募る。人間は誰もが自分こそが大事なのであって、自分の健康が侵されているときには、それで手一杯になってしまい、それが極めて間接的ながらも、周囲の死を生むことにもなりうる訳だ。
 つまり、俺は己への関心の強さが間接的な殺人への加担を自らに招いたのであって、それで自分を責めるつもりはないが、それ自体は否定しようがない事実として受け止めなければならないということだ。
 だからまた一本突き刺さったのだ。突き刺したのだ。自分を罰するのでもなく、俺の中ではその死を否定するために。繰り返すが、彼が彼自身としては現世にいなくなってしまったのは事実だ。俺も自らその境界を超えることは志向しなくても、必ず死ぬ。よって、来るべき死に向けた覚悟を、その刺さった墓標によって新たにしなければならない。
 それが度々死をネタにした冗談で盛り上がり、ゾンビ映画愛好者という共通項を持ち、“カプセルタウン・オブ・ザ・デッド”を大人買いしよう、という話をしていたのに、実現できなかった彼が、俺に投げかけた難問であって、俺は生涯を賭けて、俺自身のためにもそれに回答を見出さなければいけないようだ。
 そして、年齢は大きく上ながらも、彼は俺と誕生日が同じなのだった。それは俺を死に追いやろうとした女の誕生日でもある。要するに同じ誕生日の人間が増えることで、ありがたくも、俺を殺そうとした女との運命的な思い込みは希薄になって行ってくれていた。さらに奇しくも、彼が転出し、俺が転入した小学校が同じであるとも確認し合い、いよいよ互いの人生に本格的に踏み込んで行こうと、俺が勝手に思った時に、その関係は断たれてしまった。
 そのために一応、俺は俺の誕生日に彼の分まで飲んだつもりだ。加えて彼は巨漢で、大食漢であった。何かと言うと日記に書かれているテーマが焼肉とかなので、そんなに食いまくれない俺は若干羨ましかった。誕生日の次の日、親が焼肉を御馳走してくれるということになり、行ったが、前日痛飲した関係で、「バッド・テイスト」のジジイのように、俺は思いっきりゲロを吐いた。この先何年かは、同じことを繰り返すに違いない。


 一観客として「ワイルド・スピード MAX」へ。一作目は、構造が「ハートブルー」と酷似しているので、シリーズ自体も俺の中ではあの作品が仮にああ続いていても構わないという、脳内補完パーツとしての役割を担ってもいる。要するにそれだけ「ハート〜」が好きなだけなんだが、今やパトリック・スウェイジの死で本家のリユニオンが不可能になったからこそ、余計にあの世界観と重なるという想いで臨むことになった。しかし、それだけの覚悟でも、前作に最も濃縮されていた、シリーズ特有のバカアクション要素が後半炸裂し、そのためにシリーズ全ての積み重ねを無にしてしまう展開もまた、バカアクション的には捨てがたいので困る。まぁ、どう転ぼうとも愛せてしまうわけだ。とは言っても、南米における、虚無の荒野での爆走が今回は特に美しく(一部トンネルで損なわれるが)、それは実景の有無を問わず清々しい。加えて、「New Model, Original Parts」と銘打っただけあるミシェル・ロドリゲスの美しさ。こればかりは個人的な趣味でもロリ・ペティを超越した。それだけに最新予告で判明した「アバター」での彼女は、開拓星の先住民役でなくて本当に良かった。おかけで彼女の顔が存分に拝め、キャメロンの趣味の良さが発揮されている。ただし、本作での彼女の働きだけはいただけない。そもそも、変化こそドラマなら、生来暴力的である男のそれより、生来あまり暴力的でないとされる女のアクションの方が振れ幅として当然ドラマであり(キャメロンはここを一番理解している)、描写としての価値も上だ。故に、彼女の死は無意味だし、ジョーダナ・ブリュースターの不発も惜しまれるのだ。だが女アクションとしては敵側に、悪党でも受けた恩義は身体を張って返すという、現代の(特に日本の)女には失われた、“当たり前の女”が登場する気持ち良さが最後まで持続し、ために主人公二人の復讐への道行きも任侠映画に見えてしまうほどで、このバカさ加減では、まだ続く気も強烈にするわな。


 一観客として「狼の死刑宣告」へ。お蔵入りが長かったので、既に輸入版観賞済みだが、駐車場までの一連の長回しは何度観ても痺れるな。結局法がどうであろうと、奪われた生命の代償は、生命で払わせるしかない。法治国家を盲信している奴は、そこを素直に考えないだけだ。要するに被害者(とその係累の者)にはその権利があるという自明が描かれ、法とは暴力だけを圧殺し、遺恨を残すものだとよく分かる。本作がそうした実りなき応酬を扱った「ヒストリー・オブ・バイオレンス」に触発されたのは、その医学的であけすけな暴力描写と共に明らかだ。ちなみに噂されるスタローンの「狼よさらば」リメイクは、オリジナルはもちろん、これらの作品や、自身の復讐劇(「スペシャリスト」、「追撃者」等)も超えねばならないから、現時点では非常に心配だ。本作では、敵のギャレット・ヘドランドも、同傾向の「フォー・ブラザーズ/ 狼たちの誓い」では末弟であり、主人公の負傷と敵への肉体損傷は、対決直後の行動も含め「タクシードライバー」への愛の表明だったりもする。また、ホームビデオ鑑賞場面は「フォーリング・ダウン」で、ジョン・グッドマン扮する銃の売人は、後に「パニッシャー:ウォー・ゾーン」の“マイクロ”にも投影され、“社会派暴力映画”として既視感の嵐で、“SFアクション”における「ドゥームズデイ」のような充実度。他にも「マッドマックス」を始め、「ワイルド・タウン(ウォーキング・トール)」や「エクスタミネーター」など、その原点“自警団もの”まで含むとキリがない。近年、「ブレイブ ワン」や「屋敷女」など、踏み込みは足りないが、直球の復讐劇として再構築可能なものは増えているので、ホラー系作家の社会派暴力映画は増産すべきである。こういう健全な感情と行動が、批判的にせよ声高に娯楽として消費される限り、そしてその表現が遅きにせよ、この弱った国に届く限り、まだ希望はあるので、手始めに「老人と犬(『Red』)」でもリリースするがいい。[rakuten:punkberry:10006930:image:small]バッド・テイスト [DVD]ワイルド・スピード トリロジーBOX(初回生産限定商品)[DVD]ハート・ブルー [DVD]アバター [初回生産限定] [DVD]ヒストリー・オブ・バイオレンス [DVD]狼よさらば [DVD]スペシャリスト [DVD]追撃者 [DVD]フォー・ブラザーズ 狼たちの誓い スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]タクシードライバー スペシャル・エディション(2枚組) [DVD]フォーリング・ダウン [DVD]パニッシャー : ウォー・ゾーン [DVD]ドゥームズデイ アンレイテッド・ヴァージョン [DVD]マッドマックス [DVD]Walking Tall [DVD] [Import]ワイルド・タウン/英雄伝説 (特別編) [DVD]エクスタミネーター [DVD]ブレイブ ワン 特別版 [DVD]屋敷女 アンレイテッド版 [DVD]老人と犬 (扶桑社ミステリー)