性欲がなくなったわけではないのだよ。等々。

 最近、自分のチンコがデカいマンコに見えることがままあるのだ。元々その中間物だったものがチンコへと枝分かれしてしまったので、それは仕方ないのかも知れないが、このところ顕著である。しかも一度そう見えてしまうと、俺の肉体にマンコがもう既に存在している気になるので、さらにマンコを欲しく(つまりセックスをしたい、と)思わなくなっていることに気付かされるのだ。
 しかし、実際にあるのはチンコで、感じている感覚もチンコのそれである。そこでチンコ的観点から、先の「マンコに見えるものがある」という認識を突き詰めてみると、そちらの側からも「マンコに見えるもの」が(俺の脳の認識の中では)もう既にここにある、ということになるので、やはりそこでも自己完結してしまっていることに気付かされるのだ。
 つまり、ここに「マンコに見えるものがある」という俺の脳の認識でなんとなく納得してしまい、入れているわけではなくても、ここ以外の別の場所(当然、マンコのことである)に入れたいとも思わなくなることが考えようによってはできるようになった、ということだ。
 多分それはチンコの気持ちに傾きそうになると自分をマンコ化して納得。マンコ化し過ぎた際には、チンコ的な実感で軌道修正という、何の解決にもなっていないことなのかも知れないが、セックスに伴う哀しみや、センズリに伴う虚しさから解放されるための一手段としては機能しているわけで、ここに思い至ったことは決して無駄ではなかった。
 だが、余計なことを考えないために風俗はあるので、こうした思考や他人の前で本気になったり感情的になったりせず、常にニュートラルな状態を保っていると見せかけるためには(一応そう見えるよう、細心の注意を払っているのだ)、やはり風俗には行き続けなければならないと、誓いを新たにするのだった。

 ※ここでの“風俗”とは、全て欺瞞のないソープを指す。「ソナチネ」でも寺島進が「キャバクラ?それって風俗だろ?俺ソープしか行かねぇから。」って言ってたようなものである(以上、勝手に翻訳)。


 一観客として「かいじゅうたちのいるところ」へ。原作絵本はシンプルなので、どう長編化しているのか気になっていたが、本来なかった男の子の家庭環境の複雑さが開示され、島に到着してからのイベントが大幅増量されており、しかも2時間である。本を好きな子供が来たら、物語に加えられたリアリズムやディテール、原作にはなかった“かいじゅう”たちとのよく言えば哲学的な会話の応酬などについて来ることができるのか心配である。やはりその点からもかつて絵本が好きだった大人に向けた一つの解釈としての映画化であり、純粋な娯楽ではない、ひねた笑いを提供してきたスパイク・ジョーンズには、子供向けの映画か作れていることを期待する方が無理があったとは言える。ただ、子供向けではないと割り切って観てしまえば、“かいじゅう”たちの声を当てているのがジェームズ・ガンドルフィーニクリス・クーパーキャサリン・オハラフォレスト・ウィテカーポール・ダノといった豪華で個性的な面々が揃っており、そのアンサンブルの妙は楽しめる。さらに母親キャサリン・キーナーの恋人がマーク・ラファロだったり、現実世界の部分にも同じことが言えるが、割かれる時間が短いだけにこちらは無駄に豪華だ。そして主人公の子供は確かに可愛い。そこで可愛いからこそ余計に、子供向けではないのだということも痛感してしまうのだ。子供はそんなところ注目しないから。また、“かいじゅう”たちが演技合戦を繰り広げるというわけでもなく、少年を巡り、悪く言えば陰険な主導権争いに明け暮れるので、“かいじゅう”たちには大事らしい建築物の建造をよそに、大人の興味は埃っぽいところで汗臭くないか?とかいう部分に行きがちである。要するにそれだけ生理的なリアリティがあるのだが、物語の収束に至ってようやく絵本とのリンクが明示され、これが夕食までの短時間で起きたことになってしまうのは、絵本への愛着の、子供視点、大人視点の切り替えにおいて戸惑う観客も多いだろう。


 一観客として「サロゲート」へ。要するにロボットを使用した「アバター」であって、松田聖子とは関係ない。未来社会は、こうしたものを使用しなければならないほど、生身の人間に苛酷な環境かは明示されない。本来は身体不自由者向けに開発されたテクノロジーとも冒頭明かされているが、例えば環境汚染や核戦争の放射能被害などで未来の人間が総じてカタワになっているということでもない。単にみんな横着になり、違う性別や自分の望む容姿で社会生活を営めるからというだけの“虚栄心のみで出来上がった社会”という点に説得力がない。恐らく現代のネット社会へのカリカチュアとして、こうした設定としたかったのだろうけれど、ならばその“サロゲート”というロボットを操作している家の中には、「WALL・E」で描かれたような退化しまくった人間達のみがいるべきなのだ。しかし、こうした単なる引きこもり世界にもかかわらず、風呂に入るのも面倒みたいな百貫デブはわずかしか登場しない。しかも「アバター」との根本的な違いは、“サロゲート”操作中は脳の睡眠時領域を使用しているわけではないので、容姿によって虚栄心を満たすことと、強靭な身体能力を得る以外には、人間の労力は何ら軽減されておらず、普通に人々は疲れているのである。これは設定としては致命的であったが、その本来の用途に忠実な使用者として登場する、不具(という設定)のロザムンド・パイクは、顔に傷がある女が大好物である俺には美しさが増して見え、逆に興奮したのも事実。また暴力面ではラダ・ミッチェルの動きの切れと硬質な美しさが際立っており、無表情な女にまたしても欲情させられる羽目となった。強いて言えば、彼女が暴れる一連のカーチェイス演出はジョナサン・モストウらしく、さらに「T4」のシュワもどきに対抗したテカテカのブルース・ウィリスで笑わせてくれるが、仮に原作に忠実な映画化だとしても、そもそもディック的要素を希釈したような、物足りない原作の選定に失敗したと言える。 


 一観客として「マッハ!弐」へ。今回は話が逆戻りして時代劇になるが、タイトルが続編を銘打っているのには理由がある。英題も「ONG BAK 2 The Beginning」であって、なぜかは終盤になると判明するが、その悲惨な結末には落胆することはない。つまり、その直後から始まる「ONG BAK3」がタイではもうすぐ公開され、当然、本作でさりげなくクローズアップされた、シリーズ最重要アイテムも登場するから、また何かの因縁や縁起が明かされることになりそうなのだ。俺もあの意味深な終わり方は、さらに時代を遡って仏師の話にでもなるのかと妄想したが、いくら何でもあのまま終劇というのは、タイ人の無常観でも納得行かないということだろう。そういう意味では昔の香港映画とは違い、細やかなフォローが効いたサービス精神は、さすが微笑みの国タイ謹製。よってヒロインとの関係が今回曖昧なのも、続編で決着がつくはずだと思いたい。また、本作では山賊(日本の侍やカランビット使いも含む)直伝の野蛮人アクションを基本に、トニー的な初体験技(酔拳蛇拳、三節棍等々、みんな自分のものにしている!)を混合し、脱ムエタイを打ち出しているのが特色だ。だが、それが成功しているとは言いがたいものの、袴姿の侍が暑苦しそうだったり、登場する奴ほぼ全員歯が汚いとかの生理に訴える描写や、象の前でチャンバラしたりして思わず象を心配してしまう、相変わらずの無茶過ぎるスタントと共に、タイ映画らしい貪欲さは評価できる。現時点では次回作の売りを何にしたいのかは未知数だが、よりハードになるのは予告からも窺えるため、さらに何か新機軸を期待したいところだ。そもそも本作撮影中に、監督も努めたトニーが資金難から逃亡してしまうなど、難産の末の作品なので、撮影が中断したとか、金が集まってから続きを作ったとかの事情で、ありがちに“2&3”と二分割されている可能性も高く、なおのこと日本でも「マッハ!参」として、色物扱いではなく劇場公開して欲しいもんだ。ソナチネ [DVD]かいじゅうたちのいるところマルコヴィッチの穴 [DVD]アダプテーション DTSエディション [DVD]サロゲート (ブルース・ウィリス 主演) [DVD]アバター [初回生産限定] [DVD]ウォーリー [DVD]ターミネーター4 コレクターズ・エディション [DVD]ブレーキ・ダウン [DVD]マッハ ! プレミアム・エディション [DVD]七人のマッハ!!!!!!! プレミアム・エディション [DVD][rakuten:sekinohamonoya:1055300:image:small]