カネ、物、人が虚しい理由。やら。

 それらはいくら持っていても結局外部の力や策略によって、自分以外の人間が自分から全部物理的に奪えるものでしかない、ということに尽きる。
 カネや物は言わずもがなだろうが、一見物理的と定義しにくい“人”についても、それは破壊することのできる人間関係のことであったりする場合もあるが、同時にそれは生命(=時間)でもあるので、やはり外部から奪えてしまうことにおいては物理的なのだ。別に被害者意識に凝り固まっているわけではないし、全ての人は多かれ少なかれそうした思いを噛みしめたこともあるだろうが、事実としてそうしたものを奪われるケースは多いし、俺も非常に多くのカネ、物、人を外部の力によって奪われてきた。
 しかし、そのおかげで、俺から奪うことができないものの存在に気がついたのだ。それは知識・記憶・感じた事・俺の思い出全てなど、脳という俺の内臓の一部になってしまったものである。それらは俺が生き続けている限り、あるいは俺が意識して脳内で握っている限りは消えては行かないもので、俺から分けて奪い取ることもできない。仮に忘れたり、老いるまで生きるならば忘却や、ヨイヨイになって記憶が混濁するとか、事故や傷害などでそれらが損なわれることもあるだろう。
 だが、それはそうした非常事態の時に俺が脳内で握っているものを手放してしまったというだけのことであり、よしんば俺に傷害を加えたりなどして、俺から物理的にそれらを奪ったつもりになっている存在がいても、その行為によって、そいつが俺の脳内にあったものを所有することができるようになるわけではないのである。俺を細胞レベルまで切り刻んでも、そいつらは俺から知識・記憶・感じた事・俺の思い出を手に入れることができないだろう。
 つまり俺が俺である限り、俺から切り離そうとしても切り離せないんだということだ。ザマアミロ!だから良きにつけ悪しきにつけ、様々な思い出を経験によって蓄積し、ありとあらゆる知識を吸収しまくる。これが俺から物理的に奪って、何かを奪った気になっていた奴らに対する、俺なりの復讐法だ、ということになる。


 キノアイジャパンさんのご招待で、「飛べ、ペンギン」試写へ。韓国の女性監督の作品というだけで、実数も少ない印象がある上、日本公開作品となるとさらに少ない実感がある。また、どうも本作は人権啓発を目的とした作品という話で、イム・スルレ監督も過去に参加した、「もし、あなたなら〜6つの視線」のバージョンアップという感があり、人権啓発という目的だけでなく、物語の重層性という点に関しても位置付けは類似している。相変わらず美しいムン・ソリが扮する教育ママのキャリアウーマン、その職場に勤務し始めた二人の新人スタッフ、職場の部長が遭遇する家庭内での孤立、その父親と母親の夫婦の確執、といった具合に四つの物語が微妙にリンクしつつ、別エピソードへスライドしていく構成である。このスタイルは90年代以降、「パルプ・フィクション」に端を発する犯罪映画に使われる傾向が強いが、ややエキセントリックながら「ショート・カッツ」や「マグノリア」のように市井の人々に置き換えることも可能で、かつ物語への興味を持続させるに効果的だ。現に本作は件の二本より極めてドメスティックかつ、韓国における時事的な物語になっているが全く飽きなかったのは、この構成が惹き立てるアンサンブルによるところも大きい。特に、アメリカに妻子を留学させていたせいで溝を深めていく部長の哀愁は半端ではなく、「美しき野獣」の極悪ヤクザ組長でもあったソン・ビョンホの振れ幅の広さが堪能できる。さらに自分の妻を臆面もなく「このババア!」と呼ぶ彼の父親は観ていて心配になるほど男尊女卑的で、喫煙を隠している職場の新人スタッフ(女)同様、儒教の浸透が多様性の容認を今も阻んでいることを窺わせ、印象に残る。日本も多かれ少なかれ同じだが、やや同性愛者にもまだ厳しい社会であることを臭わせるような台詞があったのに、深く切り込んで行かなかったのは監督の自制なのか、まだ彼らを許容していない社会への配慮なのか、少し調べてみたくなる作品であった。


 一観客として「(500)日のサマー」へ。早くも本年のベストにぶち当たった予感。なぜ恋が奇跡だと言えるのか、なぜ運命が存在しないのかが、一つの男女の関係の、出会いから別れまでを徹底的に腑分けし、シャッフルすることでこれほど明快になるとは思わなかった。要するに本作は恋についての「メメント」なのだが、男の主観で物語が進むため、身につまされ度が非常に高く、セックスした次の朝、町行く人がみんな笑顔で脳内ミュージカルに突入するなどの例に漏れず、ボンクラほど全てを己にフィードバックするに違いない。事実俺も度々フラッシュバックに襲われ、物語が豪快な一回転を迎えるラストは号泣しきり。結局いつだって、文化的こだわりを持つ男は、不思議ちゃん(率直には“気違い女”)に勘違いの恋慕をすると痛い目に遭うのだ。あるいは論理的な気質の男は、気になる女の意外な行動や言動にときめいても、それらは真性の狂気に起因する可能性もあるので、一度冷静になれ、という警告でもある。とは言っても、徹頭徹尾ゾーイー・デシャネル(追悼サリンジャーの意味でこう表記する)の映画であって、例え接写用モデルのものだとしても、膝の滑らかさも生々しく、まるで宛て書き状態のヒロインの魅力に逆らえる男はいないだろう。対するジョセフ・ゴードン=レヴィットが、必要以上に中性的な外見を強調しているので、互いの内面の差異を際立たせたければ、彼女の外見上のクドいコケットリーは不要では?とも思ったが、それが結末への伏線なのだから納得である。しかし予告にあった、バスの乗客が全員彼女に見える場面がカットされていたのは、彼女の美しさが拝める場面が減っただけでなく、恋という誤解の象徴でもあるため残念。やはり運命は存在しないが、それでも恋は、宇宙の成り立ちと同じくらいの奇跡なのだ、という思いは、もう心にその機能が失われた存在からすると、より深く痛感させられる。でも別に監督が「スパイダーマン」を作る必然性は本作からは覗えないぞ。


 一観客として「パーフェクト・ゲッタウェイ」へ。「ミッドナイト・スティング」みたいにパチもん臭いタイトルではあるが、同じくこれが原題通りで、ハワイの自然保護区に紛れ込んだ殺人犯(キチガイではなく、単なるソシオパス)をめぐる疑心暗鬼を描いている。要するに「ゲッタウェイ」とは関係ない。立小便の後チンコを触った手も洗えない(文明との隔絶した)環境での殺し合いという意味では、実に緩くではあるが、「蠅の王」や「ザ・ビーチ」などにも共通する空気を持っているとも言える。登場人物が少ない上、キャストが豪華というわけでもなく、また見るからにそれと分かる背景の合成を多用しているので、かなり安っぽく見えるのだが、物語としては適度にミスリードを誘いつつそんなに複雑でもない親切設計。結局ミラ・ジョヴォヴィッチはもちろんのこと、ティモシー・オリファントやらスティーヴ・ザーンだのの、個々の俳優に向けた先入観を利用したキャスティングが意図的になされているので、そうしたものを排除すれば意外とオチは読める。しかし、代わりにネタバレ後が案外長く、しかもその決着に至るまでの暴力描写が非常に充実していて、これは意外にお得感がある。肉に刺さるのを免れて皮下を突き抜けてゆくナイフや、他にも刃物の間違った使い方は「バイオレンスジャック・奴隷農場編」におけるわいせつ教師を髣髴とさせる描写があるし、脳が露出しても生きている奴の登場などは、その自主的な応急処置法も含めて「バッド・テイスト」へのオマージュにも見える大盤振る舞いだ。個人的に肉の薄いジョヴォヴィッチがいくら露出しても全く欲情できないのだが、マーリー・シェルトンやキエレ・サンチェスの露出で補ってくれているので、各種の嗜好にも対応しているということにしておこう。もし、あなたなら ~6つの視線 [DVD]パルプ・フィクション [DVD]ショート・カッツ [DVD]マグノリア [DVD]美しき野獣 [DVD]メメント [DVD]スパイダーマン 東映TVシリーズ DVD-BOXスパイダーマンTM トリロジーBOX(4枚組) (期間限定出荷) [DVD]ミッドナイト・スティング [VHS]蠅の王 (新潮文庫)ビーチバイオレンスジャック―完全版 (10) (中公文庫―コミック版)バイオレンスジャック―完全版 (11) (中公文庫―コミック版)バッド・テイスト [DVD]