過去の遺物に出番が来たりして(おまけつき)。

 現在もある渋谷駅前の“Q-FRONT”というビルにはオフィシャルサイトがあり、かつてそこでミニシアターで上映する作品を主に扱った連載を一年ほど手掛けていたことがあるのだが、恐らくその乱暴な内容のせいで、編集長以下全員がリニューアルの名のもとに強制終了された過去があるわけだ。
 別にそれ自体はどうということもないが、当たり障りのない内容に総入れ替えされたオフィシャルサイトも、今は既に消滅してしまったらしく、渋谷も既にミニシアターの街ではない。故にそのリニューアルの結果も時代にそぐわないということになり、そうした告知はビル自体のメインの店子であるTSUTAYAとかに任せておけばいいということになったんじゃねぇの。
 それはさておき、過去に書いたものと最近観たものとでたまたまリンクする事柄があり、それを掲載スタイルもそのまま、ここに再度掲載してみることにした。もう掲載されていた内容はリニューアルで消滅し、元のサイトも既に消滅してしまった以上、当の原稿を書いた人間が、掲載されていたままの内容で再度掲載することには問題もないはずだし、これは当時のオフィシャルサイト「Ayubihs」に現実に掲載された決定稿であるいうことは敢えて宣言しておく。
 従って内容が2000年当時のそのまま過ぎるし、10年前に自分が書いたものなど恥ずかしくて正直言えば目にしたくもないのだが、全てを明け透けにする誠意からそうしたいのだし、今回観た作品の内容に、その掲載内容が関連していればこその掲載でもある。でも、恥ずかしいのは文章が未熟だからじゃないよ。文章は今でも未熟だし、感性も未熟だ。繰り返すが単にその当時のそのまますぎるのだ。では照れ隠しはこれ位で、以下、いつものに加え、末尾の本文掲載に譲る。


 アルシネテランさんのご招待で「パラレルライフ」試写へ。別の人間が違う時間で同じ運命を辿るというのが平行理論だそうである。この理論を前提として、自分が過去にあったケースと全く同じルートを辿っていると気づいた主人公を巡る、あがきの物語だ。“並行宇宙(並行現実)”ではなく“平行理論”だそうなので、いわゆる“パラレルワールド”ではなく、偶然と片付けてしまえば偶然に過ぎないが、作品自体がその説を提起し、支持する側に回っているため、決定論に取り込まれてしまったかのような息苦しい世界観の中で物語は進行してゆく。さらに、主人公が徐々にその現実に気付くのと並んで、きっかけとなった妻の死と、その犯人探しが描かれるのだが、真相が二転三転するので、作中で提示される理論とは別の娯楽性も有しており、この手の展開が好きであれば楽しめるだろう。演出が重く冷たいので、韓国映画が日本でもそこそこ公開され始めた時期の傑作「カル」を思い出す。あの作品では当時異例の残酷描写が印象的だったが、依然、「韓国映画の見どころは暴力描写や残酷描写にあり!」と痛感するだけの要素は、一応暴力映画ではない本作にも満載である。仕事量としては大した暴力スキルはないものの、「ス/Soo」によって暴力の優等生へと躍進したチ・ジニが主役の判事なので、後半の圧倒的な暴力性の伸びは安定している。また、ライバルの検事に「マルチュク青春通り」で番を張ってたが半殺しにされたイ・ジョンヒョク、彼らが共通して追う謎の男に「チェイサー」のハ・ジョンウが扮しているため、二人が突発的に隘路で繰り広げるチェイスの立体性や湿度は、物語の本筋とは別に純粋アクションの高揚感に溢れていて、作品の沸点を上げているのだった。


 一観客として「ウルフマン」へ。アイディア先行だったせいか難産で、監督の交代なども心配していたが、淡白ながらも成立したのは、最終的に引き継いだジョー・ジョンストンの功績。久しぶりに名前を見たアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは原典に配慮しつつ舞台を19世紀にしたことで、彼にとっては「スリーピー・ホロウ」系の話でありながら、「シャーロック・ホームズ」等のデジャヴ感もそそる作品となった。それは同時に「リーグ・オブ・レジェンド」やら「ヴァン・ヘルシング」的でもあり、桟橋だの、屋根の上のチェイスやらで嫌でも感じられる。また、レンフィールドが収容されていたような精神病院の登場や、アンソニー・ホプキンスの起用は明らかに「ドラキュラ('92)」、「フランケンシュタイン('94)」と並べたい意図が明白なのだが、骨格となる原作に根拠が希薄で、残念ながら及ばない。それでも、見せ場の変身の担当がリック・ベイカーだけあり、「ドッグ・ソルジャー」や「アンダーワールド」的な、昨今の露骨な狼タイプの人狼に辟易していた側としては、生物的に違和感のない獣人タイプで良かった。お蔭で後半勃発するケダモノ同士のバトルも、派手さでは「ウルフ」に並ぶ程度のクオリティ。そのせいか元々ベニチオ・デル・トロが、ロン・チャニー.Jr似だと始まった企画でも、チャニーとは違った色気が出ており、件のホプキンスや暴走系アバーライン警部を演じたヒューゴ・ウィービングとも好カードを成した。特にウィービングは「Captain America」へ、監督との再タッグに向けた前哨戦として評価しよう。しかし、全体としてそこそこ残酷でも、現代では絵空事感は否めず、どうしようもなく牧歌的なので、子供に見せるべき。


 一観客として「エンター・ザ・ボイド」へ。予告の時点から「アムステルダム・ウェイステッド!」的な匂いを感じて、とにかく着眼点の古さが目に付いたが、実際はそれなりに斬新で、宣伝で謳うような、ドラッグ使用の疑似体験を映像で味わわせようというものではない。ただ、トリップではあっても、死後の疑似体験のトリップなのだ。しかし、それは別に快感を伴うものではないし、仏教的価値観が比較的行き届いている東洋ではさして珍しい展開ではない。従って映像的な手法の新味を除いては、これだけのことを語るのに長すぎる。瞬きとシンクロさせた主観映像は創意を感じるが、要はゲームも含めた「DOOM/ドゥーム」っぽい主観映像を、「チベット死者の書」の観念で繋いだ輪廻への道行きなのだ。確かに主観以外は、CGで繋ぎ、違和感のない浮遊感と俯瞰が味わえるが、「アレックス」後半のカメラワークの延長に過ぎないので驚きは少ないし、ならば何らかの形で“馬肉屋の親父”ことフィリップ・ナオンを出すべきだった。同様にかつての作品で扱って来たセックスも重要なテーマとして描写しようと試みているが、世界一ヤってるフランス人をしても、セックスなど所詮美化できないことが証明され、笑える。だが、単純に堕胎や射精寸前の尿道を修正する日本版の配慮は不快。それに、いちいち死ななくても、「みんなが悪魔」なことくらい分かるぜ。さらに親のセックスを見てしまうというのは、ギャスパー・ノエ製作の「ミミ」にも共通するイメージがあったが、こちらは完全に少年視点なので、単に驚異で眺めているのは正しい。つまるところ、約束についての話でもあるのだが、個人的には守られたことも守ったことも大きな約束をしたこともない身としては、別の意味で辛くもあったことは否定しない…。