「モテたさ」を恥じない女の気持ち悪さ。+ひとつの確信。

 前から言ってる事だが、公私の別なく、不特定多数の女のマンコを舐めて歓心を買いたがる賎業、「クンニ職」に従事する男とは関わらないようにしている。俺は真性のクンニストなので、仕事で舐めるなら現実に舐めた方がいいに決まっているし、汚れた奴と関わると、自分も汚れる。
 だがそうやって自分の視界から排除しても、化粧品だの服だのダイエットだの、あるいは“女性に人気の〜”だとか、“女性に優しい〜”だののメディアから送られる言葉に、日々脳を強姦され続けている。これが女を利用した金儲けなのは言うまでもないが、こいつらは一様に、刷り込みを意識できないバカ女に、それは浪費すればモテるという錯覚を与えていると同時に、散財してモテる自分になる様に強制している全体主義なんだ。
 しかもこれは女に限らず無差別にバラ撒かれており、無差別テロである。似たものとしてはガキの頃、小学校の通学路に貼られていたエロ映画のポスターを思い出す。エロ映画のポスターは剥き出しのセックスと暴力を売りにして、あからさまな反社会意識をアピールしており、そこに少数派故の反骨精神と矜持を感じた俺も、欲情しつつ絶大な影響を受けた。また、その渾然一体は確実に美しさへと昇華していたために賞賛に値する。
 しかし、それと「クンニ職」どもが提示する宣伝が本質的に違って低俗なのは、多数派への見せかけの迎合だけでなく、セックスを巧妙に隠している点にある。花はなぜ人間に美しいと思わせるのか。それは発情しているからである。全ては受粉をさせるためという必然を理解してしまえば、理性は花が有するものを、美とは違うものだと警告するだろう。
 同様にモテたいだけの動機で美しい女も、美しくなろうとする女も、その底は浅い。芸術のように形に残るものではない上に、美しさのための美しさではないからだ。美しさに計算は必要だが、“計算のための美しさ”は単なる美への冒涜だ。加えて言えば、猥褻のための猥褻さは、その目的、人を欲情させる働きにおいて猥褻ならば、それは美しいということになる。
 対して、「美しくなって何が悪い」という綺麗事を抜かすバカの開き直りは大いにありうるが、計算を目的としない美しさなら、それは人間のような移ろいのあるものに定着するべきではなく、半永久的に保存されるべき価値のあるものだ。レーニンみたいに剥製にでもなるがいい。
 結局、発情を綺麗事で隠す計算こそが悪なので、それが他者を出し抜き、利己的な力として使われるなら、それは暴力と同じ使い方のできる、紛れもない“力”で、この社会で一応、暴力が悪だとされているからには、“計算のための美しさ”も同じく悪なんだよ。よって、悪である以上恥ずべきで、恥じないからには当然、教育の欠如だけでなく、恥知らず特有の醜さを晒すことになる。
 要するに本当にモテたければ(ヤりたければ)、直接的に男を欲情させればいいんであって、実は美しくなる必要なんか微塵もないのだ。下世話な「クンニ職」の商売に利用される必要もない。女のこうした錯覚は、親や周囲からのガキの時分よりの刷り込みに起因していることが大きいのは、過去にもこの場で指摘したとおりだ。男らしさ、女らしさの強制はいずれも各人が自分らしく生きることを阻み、無理や不自然を招く。こうしたひずみが、個性への差別や偏見の元凶となる。
 こうした「クンニ職」を俺が敵視するのはそのためで、職業とせずとも、男らしさを誇示し、女に媚びる男、あるいはそれが“男らしさ”と勘違いしているバカ男は例外なく、女への“やらせてもらいたい期待”=下心を全ての動機としている。女に理解があり、気持ち良くする方法を知っている振りをして、女を女らしさの檻に閉じ込めておこうとするわけだ。アメリカの“レディ・ファースト”の本音と同じである。
 しかも、女を女らしさに閉じ込めるということは、同時に男も男らしさに閉じ込めることを意味するため、実はこいつらは男にとっても敵なのだ。その証拠に、発情を綺麗事で隠してモテようとしたがる男にも、その商魂は触手を伸ばしてきている。呼応するエロ文化の衰退。危機である。「そして敵は倒せ!」と神竜剛次も言っている。だから敵がいるなら、セックスと暴力が生み出した豊穣な文化を武器に、戦うだけだ。


 一観客として「第1回したまちコメディ映画祭in台東」の、「みうらじゅんいとうせいこうのバカ映画に愛を込めて」へ。俺はこの二氏がやってる「ザ・スライドショー」は知ってたけど、毎回披露されるというみうら氏のコレクションが、俺のそれと似た部分があると何となく感じていたから、行く必要を感じなかっただけで、他意はない。でも今回、久しぶりの友人に誘われてでも行って良かったのは、今回は映画祭関連イベントとして、結局のところ映画パンフメインの「ザ・スライドショー」だったことが大きい。みうら氏自称するところの、俺は“パンフレッター”ではないが、映画を養分として成長(性徴)してきたので、映画パンフは厳選して、中型段ボール3箱分を所蔵している。恐ろしいことに、今回披露されたパンフの約七割が俺のと同じだったのだ(間抜けさを尊重して温存していた「たのきん映画」パンフとか)。そして観客はそのラインナップに爆笑していた。つまり、俺の性癖や嗜好はそこそこ笑いを取れると証明された事になる。酒を飲めば別だが、残念ながらこの二氏ほど弁が立たないんで、こんなショーをやることも、金銭を得ることもないが、歩んできた道の間違いのなさ(童貞のこじらせ具合)を確信できたことが素直に嬉しい。しかも、結末の短編上映「お笑い虎の穴」ではウトウトしたが、前半の映画上映前ネタ(「STOP!映画泥棒」、「いつでも千円じゃ」)には笑かしてもらった。ちなみに、いとう氏が映写機が止まって困った作品のタイトルを失念していたが、そいつは「ギャラクシー・クエスト」ですぜ。男組 25 (少年サンデーコミックス)ザ・スライドショー コンプリートボックス [DVD]ギャラクシー★クエスト [DVD]